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テレビから銀幕へ

―あるドキュメンタリストの誕生

ハウィ・G・セヴェリノ


 昨年の10月、私は日本の山形で、生まれて初めてドキュメンタリー映画祭というものに参加した。それ以前に放送ジャーナリストとして、母国フィリピンのテレビニュース番組『調査班(The Probe Team)』向けに45分間の番組を制作していた。この番組を同僚は「ドキュメンタリー」と呼ぶようになり、私はその「監督」ということになった。

 私が手がける作品は大抵、長さにして12分から15分間くらい。それでもテレビのニュース番組にしては長いほうだ。ところが、あるときフィリピンの辺境の島で遭遇した題材が、物語性があって個人的にも強く心に残ったために、もっと長い作品として取り組みたくなり、45分間の番組枠全部を使ってみたいと申し出たところ、OKが出た。題材とは、アオレイオス・ソリト。マニラを本拠にしている実験映像作家である彼は、自らの祖先が先住民であったことを初めて知り、祖先の地に帰って、営利本位の真珠養殖所のおかげで漁場が奪われた先住民の非暴力の闘いを指導していく。今回の作品には、広い意味では、アオレイオスの部族についてだけでなく、現代社会の圧力に対抗している先住民すべてについての物語を伝えるという目的があった。

 私は、さらに、私自身の米国での生い立ちや、母国フィリピンへ帰国した後の後日談を語ることで、脚本の中に自分自身を取り込みもした。そうやって、個人的な思想をアオレイオスの思想と編み上げ、組み合わせて訴えたかったことは、文化的アイデンティティのルーツ探しは、世界中の多くの人々が共感を持つテーマだということだった。

 従って、テレビ番組用としては例外的に長編である上、私の個人的な思い入れも強かった今回の作品がドキュメンタリーと呼ばれてしかるべきと、同僚たちの目にも写るようになったのである。ジャーナリストとしての私の経歴を振り返ると、いつも私は自分のことを単に、物語を伝える「リポーター」と考えていた。しかし、今回ばかりは、私は「監督」になり、またそのおかげで、『部族へ帰れ』と共に日本に招かれることになった。

 山形では、観客の反応を喜ばしく感じた。脚本は、彼らの心の琴線に触れたようである。日本には自然と人間との繋がりが失われたことを嘆く声が根強く残っている。私はそんな彼らの関心の深さにも知識の量にも感銘を受けた。

 山形の市民はドキュメンタリーを見るためにお金を払って券を買ってくれる。ここで上映されていた他の作品を見て、私は新鮮な驚きを覚えた。ナレーションのないのも多く、白黒作品もあれば、Hi-8などのいわゆるローテクで撮影されたものも出品されていた。大部分が創造的で力強い作品だった。

 そのうちの1つ『白〜THE WHITE〜』は、日本人ドキュメンタリー作家の平野勝之が、北海道の厳しい冬の中を小さなカメラを携えて自転車で単独旅行し、自分自身を被写体にした作品である。撮影と編集とが非常によくできていて、自然との孤独な対決をうまく捕らえていた。私はこの作品に非常に魅了されたので、テープを借りて、再度独りで見てみた。後に平野と会って話す機会があった。共通の言語を介さない私たちだったが、カメラを不安定に抱えて自転車に乗る様子を滑稽なボディー・ランゲージで表現した平野には、私も彼自身もどっと笑った。

 山形の観客は礼儀正しかったが、『部族へ帰れ』は万人に無条件に受け入れられたわけではなかった。話そのものを気に入ってくれた人たちの中にも、私の手法を手厳しく批評するドキュメンタリー・ファンがいた。少数ながら、私の作品のカットは速すぎるとか、ショットは短すぎるという意見も出た。「テレビっぽい作品だ」という感想もあった。あの場がありきたりの映画に相対する存在そのものである映画祭だっただけに、「コマーシャリズムに毒されている」と言いたいところを婉曲に言ってくれたのだろう。

 私はもちろん、それらに対して何も言い訳はしなかった。私の作品は、テレビ・ジャーナリストがテレビ向けに作った「テレビ」そのものである。私が知る限り、『部族へ帰れ』は、メジャーなテレビ番組から出品された数少ないエントリー作品のうちの1つだ。専門家集団ともいえるあのような観客にこれを見てもらえる機会を得ることができ、むしろ喜ばしく思っている。

 民放のテレビでは、長いショットや、スローな編集や、芸術的あるいは実験的な幻想シーンを使うことはめったにない(やってみたいと思っていても)。たとえば、私の番組で、ナレーションを全然つけずにストーリーが展開することは想像し難い。メジャーなテレビ局で番組を作る上では、払わなければいけない犠牲もある。私たちは非常に多くの規制を受けて仕事をしているのである。つまり、番組の体裁とか、放送時間枠とか、リモコンで簡単にチャンネルを変えていく気まぐれな視聴者のニーズ(そうやって私たちのことを簡単に忘れてしまうのだが)などを考慮しなければいけないのだ。この業界で働く私たちは、できるだけ多くの視聴者の心をつかむために、可能なかぎりの技術とストーリー性を駆使しなければならないと考えている。そして、視聴者にBBCやHBOやアニメ専用チャンネルにチャンネルを変えたいと思わせないために速いカット切りや、短いショットが必要であるなら、そういった手段を用いるのは全くやぶさかではない。

 しかし、芸術的な意味では妥協を強いられるとはいえ、テレビの場でドキュメンタリーを発表していると、毎週、何百万もの視聴者に私の仕事を見てもらえる機会もある。視聴者は、電子メールを使って、番組終了とほとんど同時に感想を伝えてくれる。また、そのようなコメントが番組で紹介されることも少なくない。

 今日、技術の進歩のおかげで、視聴者の反応はほとんど手に取るようにわかる。フィリピンで作った私の作品は、ケーブルや衛星を通して世界中に、たとえば、インドシナや、インドネシアおよび北米に送られる。タガログ語の番組であってもだ。良かれ悪しかれ、テレビ放送は、フィリピン群島のどの島にも広がっており、島の外の世界のことをまずテレビで知るということもしばしばある。ある特定の問題、たとえばフィリピンの海をダイナマイトで爆破するのをやめようという運動の重要性を訴える場合、テレビほど強力なメディアは他にないだろう。

 11年間も新聞と雑誌社で働いていた私が、活字媒体からテレビ・ジャーナリズムへと活動の場を切り替えたのは、この視聴者の数や影響力の大きさを考えたためである。ジャーナリストたるもの、できるだけ多くの人々に重要な問題に興味を持たせる目的のもとに仕事をするべきだと訓練されてきて、その願いをかなえる一番の方法だと思ったからである。「重要性」という言葉の持つ重みこそが、ジャーナリズムと他のエンターテインメント系メディアとの間に一線を画するのである。

 ビデオ技術が進歩したことで、私のようなテレビ・ジャーナリストがさらに多くのオプションを手にすることができ、狙った題材を豊かに料理することができると私は考えている。私はテレビの影響力を生かすために紙媒体からテレビに移ってきて、この技術革新から受ける恩恵を大いに享受している。安価で良質の小型製品やデジタル技術が登場したおかげで、私自身の自己表現の範囲がさらに広がってきたことを日々意識している。デジタル画像やコンピュータ・グラフィックスから、ワイルドな編集、ウェブでダウンロードしたイメージ画像まで、いまや利用できる技術は数え切れないほどだ。

 ショット1つとっても、多様性はどんどん増しているし、デジタル効果、とりわけシャッタースピードを変えて動作をリアルにシミュレートする方法などのおかげで、撮影方法に幅が出てきたため、視聴者の興味も薄れさせないし、製作者が実験的な試みをする余地も増えてきた。私はかつて、情報収集と情報統合の重要性を強く教え込まれてきたジャーナリストとして、芸術的な創造性は、「事実」の前では非力である以上に不要であると考えていた。しかし、ストーリーを伝えるカメラワークにさらに細心の注意を払うことを覚えるにつれ、また、カメラを通して個人的なビジョンを示したいという望みが膨らんでいくにつれて、私は、創造的な技術がメッセージに与える力の大きさに気づくようになった。そして、『部族へ帰れ』を撮影した後では、「監督」という肩書きを誇らしく身にまとうようになった。

 最近、私は、光源が少なくても撮影が可能で、冷蔵庫の中とかゴミ箱の底のような狭いところにも入る、手のひらサイズのカメラでテレビ作品を撮っている。私は、平野勝之のように単独で撮った、山形映画祭についてのミニドキュメンタリーを、実際に自分の番組で使ってみた。10分ほどのこの作品の中で、山形映画祭に出品されていたドキュメンタリー作品のスタイルがいかに多様であるかをレポートしてみた。昼メロに慣れきったフィリピンの視聴者に対し、ノンフィクションの映画も長編映画と同じくらい、あるいはそれ以上に力強い場合も多くあることを示したいという試みでもあった。

 技術の進歩のおかげで、私のようなジャーナリストがドキュメンタリーの監督に変身することが可能になった。しかし、それは同時に、一般的に放送ビデオが身近になったということでもあり、おかげで放送界も民主化しつつある。今や地域社会もアマチュアの人も、失われつつある風習や生態系の変化、絶滅危惧種や、はては人権侵害といった問題までを、一般のニーズに合わせてドキュメント化できる時代だ。ジャーナリストは、ドキュメンタリー製作や報道といった役割が自分たちだけに割り振られている状況に慣れていたが、今は技術革新のおかげで、ジャーナリストでない人びともその力を得ている状況にある。

 大規模なテレビ局の中で働く私たちは、この技術革新を利用し、それに投資することで、その発展を促すよう努めるべきだ。こういった技術革新に加えてケーブルテレビの登場で拍車がかかり、開発途上国の多くの農業地帯など、森林を切り開いておこなう農地開拓のような地球に有害な生計のたて方が一般的な地域で、ビデオドキュメンテーションのような地球にやさしい生計のたて方に結びつくこともあるだろう。

 前述のアオレイオス・ソリトはその後、我々のビデオチームと仕事をした経験を活かして、ビデオ機器を持って自分の村へ戻っていて、そこの部族と一緒に自らのドキュメンタリーに取り組み始めた。今や専門家と地域社会が初めて協力しあい、当該部族の土地を示す地図を作製している。これは、土地所有について彼らが法的な権利を主張する重要な一歩となるだろう。地図の作製は時間とエネルギーを費やす価値がある作業だと専門家たちが確信できた一因に、我々のテレビ・ドキュメンタリーがあった。

 アオレイオスの作品が完成・放映された暁には、他の辺境地の共同体でも、地図製作の方法が伝授されていくだろう。アオレイオスは、他の持てる技術も駆使し、村の年長者たち、特に自分の大おばウポ・マジリンの言葉を記録しつつある。ウポ・マジリンは、現存者で唯一、同部族に伝わる古代文字を書くことができる人間である。私もインタビューをしたことがある女性だが、我々のドキュメンタリーに登場して古代文字の説明をしている自分の姿を見て、彼女は次のように言ったと言う。

「今日まで生きてこられて光栄でした。私がこんなふうに生き残っていけるなんて幸せなことです」

(訳:庄山則子)


ハウイ・G・セヴェリノ(Howie G. Severino)


フィリピンでのジャーナリスト歴12年。環境問題を専門とし、1997年にテレビ界に転身するまで新聞および雑誌社で働いていた。彼はフィリピンTVの最長寿番組『調査班』で制作兼リポーターを担当している。

現在、1年間のサバティカル(有給休暇)をとっており、米カリフォルニア州バークレーにて執筆中である。フィルモグラフィーは以下の通り。

1988 『Health in a Dash of Salt』脚本
(甲状腺腫についての、ユニセフのドキュメンタリー)
1991 『Hadlok』脚本
(戦時下にある子どもたちを記録した、ユニセフのドキュメンタリー)
1992 『Yearning to Learn』脚本
(民族教育に関する、ユニセフのドキュメンタリー)
1992 『Fast Track to Poverty』脚本・レポーター
(島の生態系についてのドキュメンタリー)
1993 『Mobile Teachers in Ifugao』脚本
(山岳教育についての、ユニセフのドキュメンタリー)
1999 『Basura!』脚本・レポーター
(マニラにおける固形廃棄物の危機を取り上げたテレビドキュメンタリー)
1999 『部族へ帰れ』監督