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インタビュー ヘレン・ファン・ドンゲン (2/2)

AMN:そこまで到達して、満足感があったでしょうね。

HVD:ええ、とっても満足だったわ。それだけじゃなくて、私の撮影クルーとして5人の兵士がいて、みんながみんなハリウッドの大物で。彼らは兵士としては給料がよくないわけよ、そのうえボスが女? ハリウッドで? 有り得ないわね。だから2週間経った頃こう言ったの、「いい、坊やたち聞いて、ここで何もしないまま終わるつもり? ただ座って映画を見て、何の功績も残さないまま? 私は映画を作りたいの。だからあなたたちにはたくさんの仕事をしてほしいの。もし6時に仕事を終えてみじめなふわふわ映画を見たければ、そうすればいいわ。でも次の朝、8時にはここにきて働くのよ」。そうしたら彼らはこう言うの、「不満があるなら、なぜ軍司令官の所へ行かないんだ?」。私はこう返した、「もし嫌なら、あなたたちが軍司令官の所へ行くのね。さ、始めましょう」。それから3週間かかったけれど、結局彼らは全面的に私を支持してくれた。朝の8時から夕方5時まで、必要なことすべて、いやそれ以上のことをやってくれたわ。よい映画を作るのに必要なこと、全部。それは彼らがこの一連の作業に興味を持ってくれたから。そうしたら女と働いているんだ、なんて意識じゃなくて、よい映画を撮りたいと思っている人と働いているんだ、と考えるようになったの。そして実際よい映画を撮ったし、私たちはその後もずっと親友でいたわ。

 それにこれはハリウッドの世界で起こったことだから、映画と言えば…もちろん、ね。時に私がこう聞く、「昨夜はどうだった?」って。だって彼らは施設を占有して、ぞっとする悪質な映画を夜上映するから。それも私のためにやったと言うのよ。だから言ってやった、「あなたたちが5時以降にすることと、私には何の関係もないわよ。勝手にしなさい」って。

AMN:私は米国国立公文書館でかなりのリサーチをして、人の書いたメモや報告書をたくさん読みました。私には、世界戦争が起こっていたにも関わらず、映画監督たちはかなり楽しんでいた、という印象が残りました。あなたの場合、どうでしたか?

HVD:なにを「楽しい」と言うのかにもよるわ。

AMN:なるほど。では1930年代にちょっと戻りましょう。『ボリナージュの悲惨』の後にジョアンヴィールでマルセル・レルビエと、そしてパリではハンス・リヒターと一緒にいましたね。でも1934年から36年にかけてはソヴィエト連邦に滞在しています、教えたり学んだりが目的で。ちょうどこの期間はソヴィエト連邦の映画監督たちにとっても精神的ショックの大きい時期なわけですが、それも社会リアリズムの法制定と、モンタージュへの攻撃があって。編集をするあなたにとっては、どんな感じでしたか。

HVD:それはヨリスがグスタフ・フォン・ヴァンゲンハイムと一緒にソヴィエトへ映画を撮りに行った頃で(聞き手注:ドイツの国会狙撃を扱った『Borzi』(1936)のこと)、ヴァンゲンハイムはドイツ人であまり感じのいい人ではなかった。ヨリスはソヴィエトに3ヶ月いたんだけれど、私にも来ないか、と手紙をくれた。ちょうど新しい映画学校ができたから、私なら編集も教えられるし、ちょうどその時到来したサウンド(有声映画)についても教えられるって。ヨリスとヴァンゲンハイムは共同で映画に取り組んでいたのだけれど、2人とも大物になりたがっていたから、結局はヨリスが諦めてアメリカへ行ってしまった。私は残ったの、だってそこであまりにもたくさんのことができるから。映画製作と編集に関して教えたわ。『ボリナージュの悲惨』のロシア篇も作った。それから『Spain in Flames(燃え上がるスペイン)』(1936)も。とても生き生きとした時代だったし、政治に関与しているような時間はあまりなかったわ。政治家をやるような柄ではないし、映画に専念したわけ。

AMN:その後1939年まで、あなたはロックフェラー財団の進歩主義教育委員会(Progressive Education Commission)と仕事をしていましたが、劇映画の再編集をしていたとか?

HVD:ええ、とても面白かったわ、でも面白いと感じたのは1年かそこらね。財団は大学レベルでの教育として映画を使いたかったの、技術的なことではなくて、抽象的な考え方を。財団はニューヨークの名門女子大学、サラ・ローレンス・カレッジと提携していて、そこでは映画を使ってあらゆる社会事情に関する議論に導こうとしていたの。例えば仕事、勉強、料理、家族のことなど。だから私はかなりの数のハリウッド映画を見て、部分的にクラスで使えるかどうか吟味しなければならなかったわ。

AMN:ということは、あなたはハリウッド映画をドキュメンタリーに作り変えた?

HVD:まあ、ある意味ではそうね。でも依然として劇映画だったけれど。もちろん逆さまに見れば別のものに見えるってことがあるでしょ。何をしていたかと言うと、学生にある問題を提示することで、話し合いの土台をつくっていただけなの。大学レベルということで。だからある所までは面白かったわ、でも1年もするといつものアレって感じになってしまった。でも給料はよかったわ! それだけじゃなくて、グリーンカードももらったし!

AMN:戦争中には、あなたはネルセン・ロックフェラー/MoMA(ニューヨーク近代美術館)共同による、ラテンアメリカ映画プロジェクトに従事していましたね。

HVD:ええ、ルイス・ブニュエルとアイリス・バリーと一緒に。南米の人々に経済的な事柄を教えるのが目的で、これもハリウッド映画の手を借りたの。それを1年くらいやって、その後ブニュエルと決裂してしまう事件が起こる。ブニュエルと私は友達だったけれど、残念ながら彼はこんな疑念を持ち始めてしまったの、その…私のセクションは35mm映画を扱っていて、MoMAの映画部は16mm映画を扱っていた、16mmグループは私とは無関係だったけれど、どちらも同じビルで仕事をしていたの。そしてもちろん、16mmグループと35mmグループの間にはその相違に対して嫉妬感も生まれる。でも一緒に仕事をしていたわけではなくて、全く別のグループだったわ。

 私は私のグループに責任を持っていたの。だから私が動かしていた。でも35mmと16mmの間での嫉妬はあって。誰が何をしたか分からないけれど、ある日ブニュエルが飛んでやってきて、「何てことだ、これ、あれ、これはどうしちまったんだ、おまえ達はどこにいたんだ?」と言うのね。誰かが、私のグループは気を抜いてばかりで買い物に出かけてしまうのだとか何とか吹聴したの。私は、何のことか分からないわって言い返した。ブニュエルは、君たちこれからタイムカードを押すんだ、と言うの。だからこう返した、分かったわ、そうしなさいよ、私はもう消えるからって。

AMN:ブニュエルはとても抑圧的だったんですね。

HVD:そう、だからアイリス・バリーに言ったの、いい、これは私向きじゃないわって。私と無関係のことでルイスとやり合うつもりはないって。ビルの外にいるべきではない時間には、誰一人として出ていなかった。もし出ている人がいれば、それはラボや上映会に出かけている時だわ。残念ながら、ルイスはこれにひどく怒って、私たちの友情もそれっきりよ。

AMN:『スペインの大地』についてお聞きしたいと思います、これは2つのバージョンがありますね。1つはヘミングウェイ、もう1つはオーソン・ウェルズのナレーションがついています。どういう経緯で2バージョンになったんでしょうか?

HVD:まあ、テキストは基本的に同じだけれど、映画にナレーションを入れられる段階まで来た時には時間的に厳しかったの。オーソンは超有名な「時代の声」で、あの声の持ち主でしょ、ああいうふうに喋るわけ。彼が読んだけれど、私はヨリスに言ったの、「録音をしましょうよ、映画なしで」と。こうも言ったわ、これじゃひどいって。まるで『March of Time』[訳注:戦中のプロパガンダ映画シリーズ、米国国立公文書館所蔵]みたい。作品が台無しだわ、これじゃダメだわって。でもヨリスはこう言うの、「でもウェルズは有名で、注目を集めるよ」って。私は「身売りしているわけ?」と言ってやった。ヨリスは何も言わなかった。ヘミングウェイと私は仲よしだったから、彼に読んでみる気がないか聞いてみたの、だってヘミングウェイはヨリスと一緒にスペインにいたし、ヨリスもヘミングウェイに読んでもらうかもしれないことを本人に示唆していたから。ある日ヘミングウェイがまた「ノー」と言ってきた時、私はこう言ったわ、「いい? 私のためにいいから読んでみてよ。映画の方は見せないわ。ただゆっくり読んでみて、大勢の人を前に話しかけるような感じで」。それでヘミングウェイは読んでくれた。終わってから、ヨリスにこれを聞くべきだとかけ合ったわ。でもヨリスは言葉を濁したの。金、金、カネ! 結局のところ両方のバージョンをやったわ、でも私はウェルズ版は聞きたくないの。私の映画ではないから。

AMN:後にこれと同じことをフラハティにさせたわけですね、彼の意志に反してテキストを読ませたのだと。

HVD:でも、私はできるだけ自分の意見を主張したのよ。ウェルズとヘミングウェイはあまりにも違いすぎるし、ウェルズは劇的に抑揚をつけちゃうでしょ[聞き手注:ウェルズの声を大げさに真似しながら]「この土地は干からびて固く…」ってね。でもヘミングウェイなら静かに読むわよ、とても静かに。だってスペインの男がロバを連れて道を歩いているっていうシーンに、誰が叫ぶように読むっていうわけ?

AMN:そうですね、音声トラックと映像トラックの落差がこの映画を力強くしている理由の1つでもあります。

HVD:でも、あなたがどれくらい『March of Time』シリーズを見たか分からないけれど、始終音が鳴り響いているのよ。そこに詰まっているものと言えば、音を取ってしまったら細々した映像ばかりで何の内容もないものばかり。

AMN:日本の読者がポール・ローサについて興味を持っているので、伺いたいのですが。ローサのドキュメンタリーの著作は、1930年代に有名な女性監督(厚木たか)によって翻訳された時に非常に衝撃を放ち、今日までとても敬意をもって読まれているんです。あの本は、あなたにとってはどんな存在でしたか。

HVD:その本については知らなかったけれど。(笑)

AMN:そのお答えには別に驚きませんね。普通のドキュメンタリー史について読むと、ローサの本にはあまり触れませんから。

HVD:どうかしら。私は本を読まなかったから。でもどの本について話しているのかは、分かるわよ。ローサはたくさん執筆していたし、ジェイ・レイダも同じ題材で書いていたわ。そして3人目がいて、3人ともぶつかってしまった。みんなが自分の道に私を引き入れたくて、私は「それはいい考え方かもしれないけれど、結構です」と言った。私には理論がない。私にあるのは、映画。私は映画を何度も何度も見て、アイデアや可能性がそこから生まれてくるの。感情の一部として私の中から沸き起こるもので、何か違うものがあったとしたら、ちょうど恋愛関係みたいに、そこにあっていけないものがあったりするのに気づく。そうすると、自分自身と議論を始めてしまうわけ。これを取ろうか、残そうか?そして勇気をもって取ったとして、実際はじめからそこになかったもの、そぐわなかったものだと気づいたとしても、決定を下すまでにはものすごくかかるのよ。

AMN:それではあなたが衝撃を受けたり面白いと感じる本や記事はなかったんですね。

HVD:なかったわ、あの時代にたくさんの本があったのかさえ知らない。映画を作っている人間と常に一緒にいたから、読む必要はなかったのかもしれない。それに、常に一からスタートするという仕事の基盤は同じだった。誰かがきて、こうしろああしろと言っても、それはよくないわ。だってどんな映画も内容やリズムその他が異なっている。絵画と同じよ。画家にこれをしろ、あれをするなとは言えないわ。陳腐なものになってしまうから。

AMN:戦争後、ご自身で映画を監督し始め、インドネシア映画委員会の準備に関わりつつも初期の段階で辞めたのですが、この頃フラハティとも仕事を始めたんですよね。

HVD:この委員会のために1年ほど準備をしていても、埒があかないって分かったの、それでオランダ政府にこう言った、「いい、聞いて。これが事務作業、準備というものよ。私が出来る限りのことはした」と。そしてフラハティもすでに私のところに話をしにきていて、次の映画を作ることをずっと夢見ているんだ、と言うの。そして撮りたい数々のストーリーを聞かせてくれるんだけど、それが全て…フラハティ流の話なのよね。

 とにかく、彼は私と仕事がしたいと言って、私をルイジアナへ連れて行った。彼は一種の馬鹿げた話を温めていて、そこには例によって少年が登場するのね。でも、いつも通りフラハティは自然から撮り始めるのよ、だからはじめは環境とか雰囲気ショットがものすごく多いの。そして次に少年が1人、また1人、もう1人。だから撮影ばかりだったけれど、後になったらそれは何かと便利だったわ。

 はじめはとてもたくさんの素材があって、でも何も特別な目的をもたない素材なの。後の方で私は「記憶力がいい」と言われたわ、それは最後の方に私がサプライズ・ショットを持ってきたから。おかしなことに、フラハティはそこで初めて、みんなが忘れていたショットを私が引っ張り出してきたことに気づいたの。フラハティは目の前に起こることに従って生きているから、時間がたてば忘れてしまうタイプなの。それで突然こう言うわけ、「ちょっと、あのショットはどこだ?」って。
 「戻した方がいい?」
 「ええと、どうしてそれを外すんだ?」
 「だって湿地や何かが2リール分あれば、飽きちゃうわよ!」
 フラハティにはそういう話をしないことね! その後、彼は2、3日口を利いてくれなかったわ。だからそれは私が飲み込まなければいけないもう1つのことだった。大抵は喧嘩しているわけではないけれど、私が狭間に立ってしまって、フラハティにこう言うの、「ちょっといい? 私に話し掛けたくないこと、それはそれでいいわ。でもそんなふうにずっとふさぎこんでいるなら、私はニューヨークに帰るわよ」って。彼はとても気分屋だったの。

AMN:あの、フラハティのスタイルですが、時間をかけてたくさんの撮影をする、そしてそれをゆっくり揉むように形を整えていくんですね…。

HVD:彼は物が書けない男だったのよ。一度私に頼んできたことがあったの、『リーダーズ・ダイジェスト』に記事をひとつ書くため――分かるでしょ、お金が必要だったの。だから「さあ、やりましょう、手伝うわ」と言った。たしか「私が会ったなかで一番素敵な女性」とかいうテーマだった、それは彼の『アラン』(1934)に出ている女性のことを指していて、そこから何か短い話を作り出すつもりだったの。彼は3週間、4週間、何度もやってくるのに、いつも同じなの。戻ってきては見てみると、3行以上書いてないの。だからこう聞くの、「残りの文章はどこ? 残りを書いてきなさいよ、私はもう寝るわ。まず話を書いてきて、そうしたら一緒に全文を見ましょうよ」。そして最後にこう言った、「悪いけど、ボブ(フラハティ)、私たちが作ろうとしたあの映画、どんなんだっけ?」

AMN:その映画(『ルイジアナ物語』)の音楽製作について、少しお話してもらえませんか。たしか、あなたとヴァージル・トンプソンの共同作業でしたよね?

HVD:ええ、彼には言ってなかったけれど。

AMN:え? フラハティに?

HVD:そう。はじめにフラハティにこう言ったの、「いい、これはサイレント映画用よ。音楽と音響について話をしてもいいかしら?」
 「音楽がちょっとついていればいいさ」
 「ま、それについては後で話しましょう」
 それでフラハティは忘れてしまって、1年半は一緒に作業をしたわ。その間、私はもう少し積極的な姿勢でいた、つまりボブのアドバイスを求めていたら決定の時がどんどん遅れるだけだと分かっていたから。単に物事を長引かせるだけなの。私は美しい音楽、よい音楽がほしかった、ただのレコードや数人の演奏者ではなくて。そしてもちろん、作曲者は頭にあったわ、ヴァージル・トンプソン。そして彼に話したの、「いくらくらいお金がほしいか教えて、だってこれはあなたの音楽になるのよ、それから何人の演奏家が必要かも教えて」
 「フルオーケストラがほしいよ」
 「フィラデルフィラ・オーケストラなんて無理だわ、でも何か力を貸してよ、オネガイ!」
 そうして素の音楽をもらって、私が整音したり、効果音つけてりして、フラハティのところへ持っていったの。彼は私たちがそこまで進めていたなんて思っていなくて。もしフラハティがそれを気に入らなかったら、彼を説得しなければならなかったわよね、だってオーケストラ要員を丸ごと再集合させるのは出来ないわけだし。分かるでしょ。満足してくれないといけなかったのね、結局していたけれど。

 他にもそういう場面はあったの。もしフラハティがそれをまず20回観ないと…あと、彼は音楽に対してもとてもうるさかった。でもそういうふうに録音しないといけないわけだし、音楽をやっている人なら分かるけれど、大きく始めて後で音を控えめにするかもしれない、ってことはあるの。でもフラハティにはその我慢ができなかった。それに他人がコントロールするのも気に入らなかった。でも他人が仕切らないといけない場面は必ずあるわけだし、長い目でみれば――完成後の最初の上映で――フラハティがこう言ったの、「君がいなければ出来なかったよ」と。

AMN:ということは、フラハティは音楽や音響の編集には、あまり関心がなかったのですか?

HVD:そうね、ないと困るくらいには分かっていたけれど。いつも「シーッシーッお静かに」だったわ。

AMN:作曲家のトンプソンとは、どのような共同作業をしたのですか?

HVD:ヴァージルは全てのことを面白がっていたわ。彼は素晴らしい音楽家だし、かと言って必ずしも良い映画監督にはなれないけれど。たまに彼に音楽を入れてほしい箇所があって、彼に頼んだのだけれど、それが駄目だったら私の方が編集を変えて彼に後で見せるの。彼の音楽を使っているのだから、音楽の一部分を勝手に抜き出したらいけないというのは分かっていた。でもシーンを長めにするにはその素材で遊ばなければいけない。はじめは、それぞれの個々のシーンはそこになければいけない、という類のものではないの。動かすことができる。でも時々、トンプソンの音楽の中に特定の音符があって、それが映画の特定の箇所と合っていることがある。だからいつも変えられるわけではない。動かせるのは2、3くらいなもの。数フィートの長さしかないものを作るのに、丸2日かかることもあるの。でも最終的には、私もトンプソンも満足したわ。

AMN:『四億』の音楽は、とても興味深いですね。ハンス・アイスラーによる12楽音の音楽です。

HVD:あれは録音された音楽よ。

AMN:ということは、トンプソンとやったような共同作業という選択はなかったわけですね。

HVD:ええと、私の言葉を鵜呑みにしないでほしいのだけれど、あれは単にレコードから取ったもので、他の映画からのものだったと思う。あの時は次から次へとあらゆることをしていたから、何をするにも時間がなかったの。

AMN:それは編集者としてはさぞかし窮屈でしたね、音楽をコントロールできない状況は。

HVD:それは多分ハンス・アイスラーが、自分が作曲しようと選曲しようと、映画に「ハンス・アイスラーによる音楽」と出したかっただけ、「レコードからの音楽」じゃなくてね。音楽はおそらく他のもののために書かれたんだわ、だって彼はトランクいっぱい(の楽譜を)持っていたし、10年経ったらトランクの一番下から引っ張り出して使いまわすのよ(笑)!

AMN:どういう専門の人も、経歴を積めばいつかはそういうことが出来ると思います。

HVD:その時は、みんな移民だったの。だからトランクを1つずつ持っているの。だからよくジョークを言ったものだわ、底から引き上げてきて、上に戻せばいいんだって。ハンスが考えなくていいようにね。でもハンスはとてもいい人だったけれど、非常に怠慢でもあったわね!

AMN:監督たちとのコラボレーションはいかがでしたか?

HVD:何人の監督と組んだかしら?

AMN:たくさん!

HVD:そんなことないわ! 私はヨリスと仕事をしたの。彼が撮影できる限りは、外出していて私を一人にしてくれていた。だからそれは彼にとっても問題なかった。それに私も、ヨリスが近くにいない方がたくさん学べたしね! どんどん出ていって撮影するのがヨリスにとって大事だったし、ヨリスがじっと座っていられるのもそんな瞬間だけだったわ。

 フラハティも撮影をする人間だったけれど、撮影をしていない時はただ一日中座っていて、小さい映写機を廻していたわ。フィルムを朝から晩まで、どんな素材でも見ていることのできる人だった。座って鼻をならして、ため息を漏らしたり独り言を言ったり――「何ができるかな、何ができるかな」って。それにフラハティとは議論できないわよ。彼は直感的な人だから、議論の余地もないわ。だから何日もの間彼も私も何も話さない時があった。それにご機嫌斜めになると、彼はまるで子供だったから!

AMN:ということは、あなたには創造性を試せる空間がたくさんあったわけですね。

HVD:最初から、創造性を試せる空間と同時に、責任もたくさんあったのよ。たくさんの仕事を任されたけれど、時には怯えてしまうこともあったわ、はじめは自分が必ずしも有能ではないわけだから。でも物事を進めていくにつれ、何をすべきなのかは素早く覚えたの。誰でも一夜にしてマスターするってことはないでしょ。

 気づいたんだけれど、自分の時間をとってフィルムを本当に見て、そこに何が込められているのかを吸収しなければならないわ。もし幾度も見たなら、絵画でも同じだけれど、何か新しいもの、美しいもの、必ずしも目立たないものをその中に見つけることができる。それからくそフィルムを何度も何度も見て、もしそこに存在するにふさわしくないものがあれば、それもやがて察知できるようになるわ。どんどんひどくなってしまったら、残りの全てと調和がとれるか自分に聞かなければならない。明るすぎるかしら、暗すぎるかしら、気が散ってしまうかしら、って。

 こういう小さな細かいことは、フラハティには言っても意味のないことなの、それは彼が、私が彼の映画を変えていると結論づけてしまうから。「私の映画に触るな!」ってね。だから正直言って何度も嘘をついたわ、フラハティが「何か変えたか?」って聞いた時、私は「いいえ。私が何か変えたと思ったの?」と答えた。でももし変えたのがあからさまだったら、謝ってそれでもまず見てとお願いする。気に入らなかったら元に戻すわ。時には、言うのをなぜか忘れてしまって、そのままになったこともあったわ。

AMN:それは共同作業と言っても特別ですね!

HVD:芸当かもね? でも彼を騙したことは一度もなかった。そうすることすら無理だったわ。

AMN:初期の作品において、ムヴィオラを持っていなかった時代についての編集についてお聞きしたいんです。静止している画を見ながら、感覚でやっていたんですね。ムヴィオラを使って映像を見られるようになってから、あなたの編集や技術はどう変わったんでしょうか。

HVD:編集については、変わったかは分からない。はじめは何の機械もなかったのだから。でもフィルムを自分の指に通すのではなくて、機械に通すことになっても、それはそんなに違わなかったわ。

AMN:ムヴィオラという技術的進歩は、あなたの技術に影響を与えた?

HVD:いや、ムヴィオラはゆっくりした技術的進歩よ。こそこそ参入するような。にも関わらず、私は見ることをやめなかったわ。全てではないけれど、特定のものに限れば、とても精細な観察が要求されたの。それが映画を美しくするものよ。足を完璧には上げられない踊り子が、もしぐっと足をあげることが出来たら、それは美しいでしょ。そうでなければ、凡々なの。

AMN:編集に関する技術的進歩と言えば、コンピュータを使ってのノンリニア手法があります。それがどんなものか見てみる興味はありますか?

HVD:もう使われている技術だし、でも私はどうやってやっているのか分からないわ。実際のところ、私はコンピュータには反対なの。1つ捨ててしまったし。初期の頃1台買ったのだけれど、それに支配されてしまってね。これはこうするべきだって細かに教えられている感じで、その通りにはできなかった。

AMN:戦前はちがったかもしれませんが、戦後は編集の多くが女性でしたよね。

HVD:だってそれが女性に許された全てだったの。それしか出来なかったのよ。女性は助手としてフィルムを繋げたり、フィルムをなめることから始めるの。男はそれをやりたくないから。そういう全て…

AMN:汚い仕事!

HVD:そう、汚い仕事! 汚れをこすり落としたり、フィルムを接着したり、それが女性のしたことよ。私もやったわ、私の本当の仕事はCAPIの通信員だったけれど、落ちこぼれて、そして映画監督として復活したの!

――訳:田中純子


阿部マーク・ノーネス Abé Mark Nornes


 ミシガン大学アジア言語・文化学科/フィルム・ビデオプログラム助教授。山形映画祭91年「日米映画戦」、93年「世界先住民映像祭」、95年「電影七変化」のコーディネーターを務める。小川プロダクションについての本を執筆中。

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