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台湾国際ドキュメンタリー映画祭報告
(Part 1)

1998年9月19日〜26日

宮沢啓(山形国際ドキュメンタリー映画祭 山形事務局)


 1998年の秋、台湾で初めての台湾国際ドキュメンタリー映画祭(以下TIDF)が台北市で開催されることになった。この新しい映画祭は、私たちの山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下YIDFF)と同じようにドキュメンタリー作品にジャンルを絞って上映するもので、山形が開催されない間の年に隔年で開催して行こうというものである。台湾と山形が交互に開催することで新作を世に出したいと思っている監督たちにとっては発表の選択肢が増えたことになる。開催前のやり取りやYIDFF '97開催中に台湾側から舞踊団を含む総勢15名の視察団が訪れたことなどもあって、今回山形からは東京事務局長の矢野、「アジア千波万波」コーディネーターの藤岡、そして上映作品監督として招待されていた山形市在住の映像作家の川口肇氏と私の4名で羽田を発った。

 この映画祭を始めるにあたっては、97年当初から調査や準備が始まっていたようである。海外の映画祭に詳しい映画関係者、文化事業に理解を示す国会議員、その他様々な分野で活躍する人々が相談を重ね、4月には国会の同意も取り付けて輪郭が見え始めてきた。だが、台北でほんとうに映画祭をやろうという気になったは、YIDFF '97を見て帰った視察団の報告を聞いてからだったと言う。

 それからまもなくして映画関係者を中心に文化関係者も含めた執行委員会(日本の実行委員会にあたる)が結成されたが、開催年(98年)の5月までは映画祭がほんとうに開催されるのか不安な時期が続いた。準備は取りあえず4人ほどで細々と続けられ、5月になってやっと15人が投入される。7月にようやく政府の行政院文化建設委員会から当初予算の2000万から減額はされたものの1800万台湾ドル(日本円で約7200万)の助成金が決まって、この予算を基に映画祭の大きさが定まることになった。この間、資金の調達では民間にもあたっていたが不況のために集められず、航空会社との折衝も最後になって断られてしまう。既に開催は目前に迫り水面下での準備を進めていたとは言え、開催までの忙しさは想像を超える日々であったに違いない。

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 台北の空港に降り立つと映画祭のスタッフが私たちを出迎えてくれた。20分遅れでバンコクから到着したYIDFFではお馴染のインドのアナンド・パトワルダン監督と共に宿泊先のホテルを経由して一路会場に向かう。

 会場は台北市の東部地区にあたり、旧都心部である台北駅や総統府周辺の街並みとは大きく異なり、福岡市の総合図書館周辺を想わせる新しい街並みで、いくつもの高層ビルが現在も建設中であった。ワーナービレッジの3館(但し1館は20日のみ使用)、新光三越百貨台北信義店の6階ホール、台北市政府市政資料館4階多媒体放映室が上映会場である。この場所を決めるにあたっては市内にいくつかの候補地があったが、観客の移動を考えて場所の選定と交渉に時間をかけたそうである。結果として各会場間の移動が5分ほどという理想的な会場配置が実現した。ちなみに毎晩歩いて帰ったホテルも上映会場からはゆっくり歩いても20分ほどの距離にあった。

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 オープニングは、新光三越に隣接する超高層ビル内の「新舞臺」ホールが会場である。ちょうど大きさはYIDFFのメイン会場の中央公民館ホール(約600席)と同じ位だが、内装は一流ホテルのように立派なものだ。このビルは民間の建物で、オーナーは国民党政府に太いパイプを持ち、自らも時々はこのホールで京劇を演じるというなかなかの趣味人である。私たちが到着した時は、アトラクションの京劇が終わる頃だったので、オーナー自慢のホールでの京劇を観ることは叶わなかったが、ウェルカム・パーティ用にビルの前庭も開放され、TIDFに対する協力ぶりは充分に伝わってきた。

 開会式が始まると国会議員の笵巽緑氏などの政府関係者や、国家電影資料館館長の黄建業氏などの挨拶が続き、最後にスタッフが全員立ち上がる中を総理大臣が登壇した。挨拶した人々はほとんど通訳を交えず英語と中国語の両方で話していたことは印象的である。こうした挨拶は結構長かったが、映画祭側としては政府の資金をもらっており、12月に選挙もあるので、こうしたアピールの場を提供したのだと言う。

 オープニング上映は、オランダのヴィンセント・モニケンダム監督の『マザー・ダオ』で、YIDFF '97では東京税関の検閲によりカットされたシーンが、なんの問題もなく上映されたことを事実として記しておかなければならない。

 台湾における検閲は、1985年まで市民局と文化工作会(国民党)が行っていた。その後は市民局だけになり、不服がある場合はもう1度申請できる。その場合は、市民局の他に知識人も入って審査する。さらにそれでも不服がある場合は審査員を入れ換えて合計3回までできる仕組みになっている。現在はホモセクシュアルな作品が流行しているが、そのような作品や政治的作品の検閲はないという。

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 次の日からは食事もそこそこに各会場を移動しながら映画を見て回る。入場料は、助成金が行政院文化建設委員会から出ていることと、仮にチケットを販売して売上があると歳入処理手続きなどの人的経費がかかってしまうという事務局側の事情もあって無料になっていた。チケットは日時の決まった座席指定制で、希望する市民に1人4枚まで配布されたが、好評のうちにすべて映画祭開催前に配り終えてしまったという。私も最初のうちは指定席であることを知らずに座っていて何度も移動するはめになった。ちなみにTIDF直後に開催された「台北映画祭」は、入場料が100台湾ドル(日本円で約400円)である。それでも通常の劇場料金は280台湾ドル(日本円で約1120円)だからかなり安い。しかし、いくら入場料が無料であっても人の集まらないイベントはたくさんあるが、TIDFに対する市民の関心はきわめて高く、会場はどこに行ってもほぼ満席だった。なかでも学生や20代の社会人と思われる若い人々の姿が目立ち、上映後の質疑応答の際も熱心な質問が切れ目なく続いていた。

 上映作品は5つの部門に分かれて上映された。インターナショナル・コンペティション(フィルム)20本、インターナショナル・コンペティション(ビデオ)32本、国際審査員作品8本、台湾記録片回顧15本、亜洲専題(アジアン・イメージ)10本の合計85本である。その中からコンペティションのフィルムとビデオの部門にそれぞれ最優秀賞、優秀賞 2本 、国内製作のフィルムとビデオのコンペ全作品から選出された作品に台湾監督賞が贈られることになっていた。

 なお、ここで注目すべきことは、私の観た限りビデオを含めた上映作品すべてに字幕が入っていたことである。字幕打込は通常たいへんなお金と時間がかかるので、どのようにして作業をこなしていったのか興味があったので聞いてみたが、選考して決まったものから順に作業に回して行き2ヶ月位で終了したというビジネスライクな答えが返ってきた。山形では台湾よりも上映作品が多いことや、特別に海外のフィルム・アーカイヴから借用したものもあるので、すべてに字幕を打ち込むことはできないが、これまで主力にしてきた同時通訳や事前録音方式から、フィルムを傷つけずにコンピュータと連動して字幕を映し出すサブタイトルシステムの導入も考えて行かなければならないと思った。

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 運営については首席1人、副首席1人、執行委員9人で構成された執行委員会がある。作品選定に関しては、選片小組と呼ばれる選考小委員会があり、国家電影資料館館長の黄建業氏を総召集人として6人の錚々たる映画人が担当している。開催中は、彼らが上映前の解説や上映後の質疑応答の司会進行なども担当して各会場を飛び回る。上映作品の収集は金馬奨の元コーディネーターで、YIDFF '97の「アジア千波万波」の審査員も務めた游恵貞氏が、これまで培ってきた様々な人脈を使ってコンタクトを取ったり、国家電影資料館でも国際フィルム・アーカイヴ連盟(FIAF)のネットワークを活用して上映作品が収集された。しかし課題として、台湾の作品はスタッフがダブっていることが多く、同質の作品が多過ぎて観る方が退屈しまう傾向にある、と選考委員の張昌彦氏は話してくれた。今回は第1回目なのであまり冒険をせずにオーソドックスなものを選んだということである。

 事務局にあたる秘書處には、視察団で山形へ来た石靜文氏を中心にして各担当のチーフ15人がおり、さらに30人ほどの学生やフリーランスの若手がスタッフとして動く。特に接待やインターネット、翻訳、資料編集等は担当者がはっきりしており学ぶべきことが多かった。学生の一部には友達を手伝うと言う形でボランティアで参加した人もいる。私たちのアテンドをしてくれた謝さんと李さんも日本語学科の学生で、作品を観ている時間帯以外はいつも近くにいてこまめにサポートをしてくれた。謝さんなどは随分遠くから毎日通って来ていたようであるが、毎朝決まってホテルにモーニングコールを掛けてくれるという気の遣いようであった。もうひとりのアテンド、陳さんにも毎日深夜2時、3時まで通訳として付き合ってもらい頭の下がる思いである。それでもアテンド・スタッフは毎日きちんと朝9時30分と夕方5時に集り、ホテルのロビーや新光三越のスタッフルームなどでよくミーティングをして連絡を取り合っていた。

 現在、台湾の映画上映状況はほとんどがハリウッド映画で占められている。政府は自国映画振興のために製作費などを助成しているがその効果は残念なことに芳しくない。年間10本ほどは作られているそうだが海外で賞を取ることが目的になってしまっている。観客もハリウッド作品に流れるために、自国の作品がたとえ劇場で公開されても2〜3日で打ち切られてしまうこともあり、あの侯孝賢監督の作品も決して例外ではないそうである。

 しかし、滞在中に面白いものも見つけた。『美少年の恋』[楊凡監督、1998]と作品タイトルに日本語が入った籏を見つけたので近くに寄ってみるとそれは香港製の映画であった。大抵台湾では欧米人の名前や映画のタイトルを半ば強引に漢字で表記してしまうが、この作品を日本語で書いているのは、日本のトレンディ・ドラマをほぼリアルタイムで見ている若者による日本ブームが影響しているからなのだろうか。

 一方、「最近の映画は、コンピュータを使って映像を作るので、ドキュメンタリーにとっては良いチャンスだ」と語ってくれたのはドキュメンタリー作家の呉乙峰氏である。彼はさらに続けて「10年前の台湾には自由がなかったが、今はそれがある。台湾には400年の不満があり未来に向かって色々なことを発したい。それは復讐のためではなく、ドキュメンタリーを通して自分自身を探すことである。ドキュメンタリーは最後にみんなの生活の中に戻っていく」と続けた。

 この映画祭はコミュニティのみんなが気軽に広場に集って観る上映会のようなものを目指したいとも言う。余計なものを削ぎ落とし、簡素だが生活の「場」や「人」にこだわるTIDFのスタンスは、ともすれば派手な方向に向いがちな多くの映画祭から学んだ自重の意味をも含んでいるようだ。

 私は残念ながら開催期間の半ばで帰国したが、映画祭は最後まで盛り上がり多くの成果を上げたと聞いている。10年前と現在、台北という大都市と一地方都市の山形、状況も環境も違う中で簡単に比較はできないが、1989年当時のYIDFFに比べてTIDFには全てに余裕が感じられた。空港まで送ってくれたプロデューサの范健祐さんは「台湾はこれまで様々な困難を乗り越えてきたので、どんな状況にも対応できるのです」と話してくれたが、これは何事にも積極的に取り組む姿勢の表れなのだろう。政府も映画祭の成功に大いに興味を示しているそうなので、来年の映画祭はより充実した内容ものになることを期待したい。

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 山形ではまだまだ寒さ厳しく雪の降る2月、暑い冬を過ごしているという台北の謝さんと李さんのふたりから年賀状が届いた。ふたりの「山形に行きたいで〜す」という声に、国内外から貴重な時間とお金をかけて参加する多くの人々の期待に応えるために、私たちも今秋の映画祭を目指して全力で走り続けなければならないと思っている。