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 福祉映画づくり、
いってこいの関係

柳澤壽男 Yanagisawa Hisao


 1999年6月16日、柳澤壽男監督が83歳にて急逝されました。山形国際ドキュメンタリー映画祭には89年の第1回からご参加下さり、93年にはアジア・プログラムの審査員を務めていただきました。また「Documentary Box」第4号では、日本のドキュメンタリー作家シリーズにご登場いただきました。看護婦をテーマとした新作の製作に取り組んでおられた柳澤さんですが、残念ながら89年の『風とゆききし』が最後の監督作品となりました。

 92年12月に南陽8ミリクラブが小川紳介監督追悼上映会と冠して開催した「ドキュメンタリー映画祭 in NANYO」では、柳澤さんの『ぼくのなかの夜と朝』上映と、講演会がありました。山形国際ドキュメンタリー映画祭ネットワーク発行の「ネットワークつうしん」No. 28(93年3月)に掲載されたその講演の記録を、ここに再掲載いたします。

 柳澤さんの今までの当映画祭に対するご厚誼に深く感謝するとともに、慎んでご冥福をお祈りいたします。


志をもちつづけるということ

 私は日本の監督のなかで3人を非常に尊敬しています。1人は戦前から記録映画を撮りました亀井文夫という監督です。『小林一茶』とか『上海』、『北京』、『戦ふ兵隊』そういう映画を作られた方です。もう1人は水俣の映画を作られた土本典昭監督。それからもう1人は小川紳介監督。小川君は三里塚から山形まで一連の作品を作ってこられた。そうしょっちゅう会うわけではなかったのですが、会うと必ず小川君から2つのことをいわれました。1つは、「俺は最後まで記録映画を撮っていきたい」、それは必ず言っていました。もう1つは私にむかって、「志(こころざし)を持ち続けろ」ということ。「ああ、志ねえ」と、簡単にうなずいていたのですが、さて志って何だろう、申しわけないのですけど亡くなってから、何であんなに繰り返し志を持ち続けろといっていたのかと思ってきたのです。そして小川君の作品を観てきて、小川君の言っている志とは多分こういうことだろうなと思うんです。1つは、「お前の立場はどういう立場なんだ」と。そういわれても弱いんですが、小川君の写真は一貫して疎外されたり差別されたりする人の立場に立っていた。たとえば社会主義とか資本主義とかのイデオロギーにとらわれないで弱い人の立場にたっていたと思います。小川君のいう志のなかに「お前は弱い人間の立場に立ち続けろ」と言ってくれたんだと思います。それからもう1つ「自立して映画を作れ」と。自立して映画を作るということはとても困るんです。国や自治体あるいは大企業からお金を貰って映画を作るのは、比較的簡単です。映画というのは無駄の上になりたっているようなものですから、お金をいただければ映画はできる。ただし金は出すが口は出さないという人はいない。必ず口も出す。だから、「口は出させるな、そのためには自分で銭を作れ」と。これがですね、映画ってのは2千万から3千万くらいのお金がかかる。それだけを自分で調達するのはたいへんなんです。小川君は三里塚からずっと、みんなで一生懸命お金を集めて、国や自治体、企業からお金を貰わないでやってきた。お前もそういうふうにしろと言われているに違いない。それからさらに、映画というのは形式がありますから10年もやっていますと引き出しがいっぱいできます。その中から組合せを自由にすれば、あるときはお客さんを泣かせ、あるときは笑わせるということが比較的容易にできます。映画は専門家でなければできないなんてことはない。誰にでもできる。しかし、形式があるということは形式がないということなのです。小川君は「映画の新しい形式を作ろう、それをこころがけろ」と、言っているのだと思います。記録映画というのは「過去を語り、現在を描く」といわれています。しかし、小川君だけは現在を描くだけではなく、それをバネにして「未来を切り開け、未来を切り開くために映画を作れ」と言っている。小川君の映画全体を通してそう私は感じます。もう1つは東南アジアの映画監督と力を合わせて映画を作っていきたいと、小川君は生前ずっと言っていたわけです。なぜ東南アジアの監督たちか、という疑問があります。たとえば、台湾の『悲情城市』、それから中国の『黄色い大地』、いろいろな監督の作品がありますけれども、それらを観ますと、映画の中ではそうは言っていませんけれども、根底に「我が民族、我が国家はどうなっていくのか、我々はいかに生くべきか」ということが流れている。残念ですが日本の映画にはそれがない。若い子が若い男の子を好きになり、うまくいきましたとか、失恋しました、不倫をしましたという映画ばかりです。我が民族、我が国家、私、という問題をひたむきに考えていく、その底流にあるものがちゃんと存在しなければ映画は面白くならないということを、東南アジアの映画監督と協力したいという彼の言葉のなかに、私は感じるんです。そういうふうに小川君をずっとみてきました。それで、亡くなったときに僕は茫然自失した。3人の先生のうち1人を失ったのですから、茫然自失をして言葉もありませんでした。そういうわけで小川君とのつながりは私の中で深い。


ものを考えるということ

 私はそもそも松竹のチャンバラ映画の助監督です。私はチャンバラ観るのは好きなんですけど、チャンバラは嫌いなんです。人を切って映画を作る気にはならない。そのうちに亀井さんの『小林一茶』という映画を観て、記録映画が面白いやと移ってきたんですが、自分が作りたいような映画はなかなかできない。どういう映画を作ってきたのかといいますと、たとえばサントリーのウイスキーは世界で一番うまいという映画を作れと言われた。作るのはそう難しいことではありません。しかし、内心はサントリーのウイスキーが世界で一番うまいなんて私は思っていません。スコッチが一番と思います。そういう仕事をずうっとやってきました。そういう仕事をやってきて蓄財の精神があれば家も建ちますし、車も買えます。私はどうも銀座のバーにいっていることのほうが多くてまことに恥ずかしいことです。そのころ神通川の上流に三井鉱山神岡鉱業所というところがありまして、そこのPR映画を作っていました。10ヵ月くらいかかって出来上がった直後に、そこが神通川イタイイタイ病の発生源だとわかりました。神通川イタイイタイ病の発生源の宣伝映画を一生懸命に作っていた。その時に「2度目の過ちを犯したな」と思ったんです。なんで2度目かと申しますと、私は戦時中に日本映画社というところでいろんな作品の助監督をしておりまして、いってみれば戦争に協力したといっていいだろう。その時に戦争に反対した映画監督は亀井文夫1人です。戦後になって、日本で一番高貴な方といわれる方がいらっしゃるわけですけども、本所深川の大空襲をご視察になりました。その時に私はカメラを持って助監督で行ったんですけども、そういう教育をされた結果で無理からんことだろうと思うんですけども、非常に無感動でいらっしゃった。この方のために戦争をしたのか、という反省がございました。その時に気がついたんです。気がつくのが遅いんですけど。大学を出るというのは、単位を貰って卒業証書を貰うということではないんです、本当は。「お前さんは考える力があるよ」と大学がいってくれたことなんです。だから卒業させてくれたんです。こう考えていいんじゃないか。そうすると僕は戦争中にものを考えなかったな、と思ったわけです。これが第一の過ちです。それから第二は、やはり神通川のイタイイタイ病の企業の宣伝映画を作ったのが第二の過ちだろうと思います。さらに申しあげますと、鶴見に日本鋼管というところがございまして銑鉄から造船までやっています。ここの記録映画をやはり1年ほどかかって作りました。門を入りまして左側に消防車が10台くらいあって、右側に大きな小屋がありました。小屋のなかに何があるのかと考えましたけどそこは見せてくれない。撮ってもしょうがないよ、といわれれば、そうですかというよりない。ある日高々とサイレンが鳴り、消防車がすっとんでいき、次の瞬間に小屋があきました。やじ馬ですから見にいったんです。何があったかというと、お棺が積み上げてあった。大工場ですから、安全対策は一生懸命やってますけど事故がどうしてもある。それにしてもお棺を常備しておくとは、企業というのはずいぶん残酷だと思いました。


療育との出会い

 このようなことがありまして、もう宣伝映画を作るのが嫌になって、岩波映画で最後の1ヵ年間何をもってこられても、全部断ってただで給料貰って過ごしました。そうしますと、来年は契約しないよといわれて、岩波映画をおんでることになったわけです。さて、どうするか。ちょっと困りました。銀座にもいけないし、お金が自由にできなくなる。2、3年とてもしんどい思いをしました。そのころ小川君は三里塚を撮っていました。それから土本は水俣を撮り始めていたんです。俺にそのまねができるかっていうとですね、あの2人は勇気とエネルギーがありますから、機動隊がきても立ち向かっていくわけです。本当に立ち向かっていったわけじゃないという説もあるんですけども、僕は立ち向かっていったと思う。僕は憶病ですから機動隊が来るというと逃げるわけです。ご存じかもしれませんが、東京の清水谷公園にみんな集まってデモをやるんです。その時、リーダーの人たちに「僕は機動隊が来たら逃げるよ」と言うと「逃げてもいいよ、でもこの次のデモには出てきなさい」と言うから、「それは約束する、でも機動隊が来たら逃げるよ」と言うわけです。デモが始まり、機動隊が来る。僕は「きた、逃げる!」、「はい、どうぞ」というわけで、とても憶病なんです。何ができるかということを、2年本当に仕事をしないで考えていましたときに、たまたま西の知恵遅れの父親と言われる先生が、近江の琵琶湖学園に遊びにきなさいと言ってくれた。知恵遅れの子供の施設に遊びにいって何が面白いか、と思っていたんですけれども、あまりお誘いがあったものですから、それならとでかけたんです。今は場所が違いますが、昔は琵琶湖から流れる宇治川沿いにありまして桜並木の下をあがっていくと、僕より背が高い、ちょっと人相の悪い、知恵遅れの子に初めて会ったものですから人相が悪いって思ったんですけど、そんな子が腕組みして、仁王立ちになって私を睨みつけている。半分ぐらいこわかったですね。近づいてみれば僕の顔を見ながら、「先生なにしに来たんや」と言うんですね。そういわれたって、遊びに来たんですからね。「遊びに来たんやなあ」と言いましたら。いきなり、その子は声を大にして「先生、人間ちゅうのは遊んでたらあかんねん、働かんとあかんねん」と言うわけです。嫌なことをぬかしやがると思ったんですけども、しばらく滞在いたしました。その子と幸いなことに仲良くなった。ある日、その子が一晩帰ってこなかった。近所に宇治川が流れていますから、みんな手分けして捜したわけです。次の日の夕方帰ってきた。2日目になったら、また彼がでかけていくって言うんです。どこへ行くのか聞きますと、向こう側に観音様があったんです。じゃあ僕らもいこうかと一緒に行きました。我々は岩波文庫とか小説とか持っていったんですが、彼は何も持っていかない。弁当だけ持っていった。観音様の先に水車小屋があります。水車小屋の前に彼は腰をおろしたんです。12時ころでした。飯も水車小屋を眺めながら、夕方の4時ころまでいる。そのうちに夕方になったからかえろうや、また心配するからね、と言ったんです。「ときにお前な、この水車小屋がなんでおもろいねん」と聞いたんです。水車が回りますから水滴が散ります。彼はその水滴を指さして、「先生なあ、こんなに世の中に美しいものあらへん」と。情けない話なんですが、はたと気がついたんです。太陽が東から西へ移りますから水滴が千変万化する。こんな美しいものあらへんといわれてみると本当にきれいなんです。そうか、この子はこういうことが見られるのか、と思いました。それからもう1つは煉瓦を積むことがありました。Aの地点からBの地点へ運んで煉瓦を積み上げる競技があるわけです。ある1点のところまでいくと、彼は全部煉瓦を崩してしまう。またはじめからやり直す。結局、競技としては負けになるわけです。負けて無念そうな顔をしているから、「せっかく一生懸命積みあげたんだ、積んでいったら勝つやんか」と言ったんです。「先生な、それあかん」と言うんです。「煉瓦というのはきれいに積まなあかんのや、きれいに積むことが大事で、速いことは大事であらへん」と言うんです。そうか、この子にはこういう価値観があるのか、こういう価値観は俺の中にないな、と思いました。で、そのうちに先生が重症心身障害児の施設をつくる。重症心身障害児なんて見たことも会ったこともないんです。見にいきましょうというんで、行きました。尼崎というところに行ったんですけども、鉄格子のなかにいるんですよ。お母さんがお昼ご飯をもって入りますと、むしゃぶりついて食べる。お母さんが外へ出て鍵をかけようとすると、母親に抱きついて、踏んだり蹴ったりする。これが重症心身障害児、とても人間ではございませんという感じでした。その人間でないものを教育する。療育をする。先生に「療育ってなんですか」と聞いたら、「そりゃあ、理論的にはわかっているけど、現場で試して当たっているかどうかわからない。だから学園を作って療育するんだ」というので、そうか、これはまたすごい、でも、この子が明日どうなるかということもわからないのに映画を撮るわけにはいかないとも思った。それでも映画を撮ってくれというので、やみくもに撮っていたんですが、ある日近所に流れている川がありまして、その川から石を運んできて学園の裏庭にプールを作ることになった。土を盛って礎石にして、その上にコンクリートを張りプールを作る、そういう作業をですね、ボランティアが約70人と、重症心身障害児が8、9人ぐらい、保母さん、看護婦さんみんな協力して作ろうとなりました。重症心身障害児にとってはまったく新しい経験です。そういう経験のなかで、働き方が見事だというよりないほど良く働く、すこしずつ子供たちが変わってくる。療育ってこういうことだなと、すこしずつわかってきたということがあります。


自立して映画をつくるために

 映画は3年ばかりでできまして、方々もって観せて歩いている間に、たまたま仙台の西多賀公立病院というところにいきました。院長先生が、筋ジストロフィーというのを見たことがあるかと言いますから、名前は知っていますけども見たことはありませんと言いましたら、病棟を案内してくれました。筋ジスというのは、19才くらいで亡くなってしまう病気です。そういう子供たちが非常に明るい。あんまり明るいので、この明るさはどこから来るのかっていうことで映画を撮る決意をしたわけですけども、さて、ここで小川のいう自立、自分で銭集めろってことですが、目標は2500万ぐらいです。厚生省にうかがいました。こういう映画を作りたいからお金をいただきたいと、小川の自立には反するかもしれませんけども、お金がないからしょうがないと、行ったわけです。ところが、こういうことは民間でやる仕事で厚生省は関知しませんと、一銭も出してくださらない。しょうがないから頭を丸めて、靴をきれいに磨いて、スーツをぴっちり着てですね、それまでPR映画を作った全国200社をまわりました。とらぬ狸の皮算用とはこのことでして、全部断られた。「それは当社の仕事ではございません、そういう映画にはお金を出す意思はありません」という返事でした。さて、どうするか、10人ばかり仲間が集まりましてね、大学の卒業名簿それから全国の教会の名簿、民間のいろいろな人たちの名簿を集めまして、目隠しをして千枚通しでポンと穴をあける。すると穴があきます。その方には一度もお目にかかったこともお話したこともないんです。その方に、こういう映画を作りたいからご援助くださいという製作趣意書を書きまして、下手でもいいから必ず自筆の手紙を入れる。まことに勝手ですがお願いしますと。全国に5万5千通くらいだして1万3千通くらい返ってきました。百円という方もいらっしゃる。しかしなかには10万円という方も、50万円の方もいらっしゃる。3年間で2500万集まりました。こういう方もいらっしゃるんだなと、とてもありがたくて、それで『ぼくのなかの夜と朝』という映画を3年掛かりで作りました。ただし、このときも小川のことが気になっていました。どこがというとですね、たとえば小川君の扱っているのは農民の問題ですが、農民の問題を自分の問題として扱っています。筋ジストロフィーを自分の問題として扱うということが、どういうことなのかがなかなか私の気持ちの中で決まりませんでした。そういうふうになっていたかどうか、ずいぶん前の写真ですのでまことに自信がございません。しかしこの映画は、小川君の写真が各地でやられますとおり、いまだに全国各地で上映されているわけです。記録映画っていうのは息が長くならないと具合が悪いってのがありますから、そういう意味では息が長かったなと思います。この写真を作って、小川に追いついたなっていう自負心がありました。これで追いついたなっていう感じが少ししました。その後の小川の作品をみていますと、追いつくどころかはるか彼方に行っている現状でございます。


障害者にとっての福祉

 それを全国各地で上映している間に、こんどは車椅子の人たちが働いている授産施設というところで映画を撮ることになりました。当時は労働力がたいへん不足していまして、授産施設で働く車椅子の人たちに福祉工場というのを建てて、その中で企業の下請をして、その人たちに給料をあげて、余剰で福祉工場を経営していくという考え方が支配的だったんです。それはいいことに違いないって私は考えました。が、ちょっと待て、というのはそこのところなんです。ふつう企業が労働力を集める場合には土地を買い、建物を造ります。それから人を集めます。ところが、福祉工場の場合は、土地は自治体か社会福祉法人が買いなさい、建物も自治体か社会福祉法人が買いなさい、企業はその建物の中に生産ラインを作るだけです。それだけで労働力を確保できるわけです。福祉工場の福祉ってのは、本当に車椅子の障害者の人たちに役立っているのか、それとも企業にとっての福祉なのかという問いを出されると、私は、企業にとっての福祉である、障害者にとっての福祉ではないと考えます。それからまた、工場を建てるときに、車椅子の人たちが全国の福祉工場をまわって、ベッドはこうしてくれとか、戸はこうしてくれとかいうようなことを、研究して、模型を作ってお願いしたんだけども、結局自治体にまったく無視されてぜんぜん別のものができる。そういうことがありまして、この写真を私は今観てもあまり好きじゃないんです。というのは告発的だからなんですけども。そういう映画を作りました。


福祉というのは自発的意志を尊重すること

 そのあと愛知県に行きまして、知恵遅れの大人のメンバーと仕事をしました。障害者というのは、何も考える力がないし、何もできないというのが一般の考え方です。しかし、その常識が当たっているかどうか、やってみる価値があるっていうわけでですね、君たちはなにをどういうふうにしたいと、根気よく延々と尋ねてやりました。それまで公民館を使っていたんですが、ある時から近所の工場の跡に移転することになった。その時に、君たちはあそこで仕事をすることになる、だから君たちがこう使いたいという設計図を書いてごらんなさいと、指導員のもとで約ひと月かかって設計図を作りました。それじゃあ、これをやるにあたっては500万ぐらいかかる、どうする、僕もお金がない、ご両親にもお金がない、お金をどうやって作るんだ、と聞きましたらね、廃品回収でも何でもやってお金を作ると言いました。彼らの決意が周囲を動かして、それで作ることになったんです。大工さん1人だけ頼んで、床の下の掃除からガラスふきからみんなやったんです。約3ヵ月かかって改造して、仕事を始めることになったわけです。仕事はなにをやりたいのといったら、農作業をやりたい、木工をやりたい、それから記録を作りたい、みんな分担してやろうじゃないかと始めました。半年後に、少し品物が売れましてお金がたまりました。このお金は君たちが働いたお金だから君たちが分けなさい、と分配も彼らにさせました。4、5人の人にお金を渡して、分けてごらんなさいというと、分けてくれる。重症心身障害児というのが3人くらいいるんですけど、その子にもちゃんとお金がいくんです。重症心身障害児なんて、何も働いていない。しかし、仲間だということでお金がいく。1人平均1500円くらい、生まれて初めての月給になったんです。つまり、そこで初めて私も気がついたんですけども、福祉というのは、自発的意思を尊重することということが出発点だと。知恵遅れであろうと、何であろうと、自発的意思を尊重することでしか、福祉の出発点はないことに気がつきました。

 その映画が終わって、また全国をまわっている間に、盛岡に市民福祉バンクというのがありまして、リサイクル活動をやっている12人くらいのメンバーがいまして、そこでもメンバーの意思を尊重して、リサイクルで品物がたまったらどうするか、だれに手伝ってもらうか、ということを、自分たちで決めてやっています。いろんなことを自分たちで決めてやんなさいといっていましたけども、古い農家を解体して、それを再建して蕎麦屋を建てたいとの意見が出てきました。その先が問題なんですけども、できないということで葬られたのですが、異議を申し立てる人たちがいる。みんなで工夫してやればできるよ、というメンバーがいるわけですね。それも、知恵遅れのメンバーが必死でいうわけです。そういうメンバーを集団から追い出す。そんな傾向がありまして、自発的意思を尊重するとは言いながらですね、なかなかそうならないってことがあります。そういうふうにして福祉の映画を作ってきたんですけども、申しましたように、福祉ってのはやっぱり自発的意思を尊重することからはじまる。

 次に私の気がついたことは、差別。僕なんか民主的な亭主だと思っているんですけどね、かみさんに、そう言いますと、なによ、あなたなんかと指摘されるし、自分じゃ民主的だと思っていても、一向にそうじゃないってこともあるんですけども、差別、男女差別があります。私はいま、看護婦物語をやろうと思案中なんですけども、看護婦物語の根幹にはやっぱり差別がある。お医者様が偉いっていうことですね。看護婦の仕事ってのは、本来創造的で専門性がなけりゃいけないんですけども、なかなかそうなっていない現実があります。差別の二重構造っていうんですかね。うちの子は頭は悪いが体は丈夫だ、体は悪いが頭はいい、水俣の患者さんが、生まれつき障害ををもっている人たちに、私たちは生まれつきじゃないといって差別をする。被差別部落の中に障害児差別がある。差別の構造は二重にも三重にもなっていて、簡単にはなおらないなあと。現に私だって、もう障害児とつきあうのはたくさんだという気持ちがまったくなくはなく、差別の構造は覆すのに本当に難しいなというのが、私の感じてきたことです。


過去と現在をばねにして未来をきりひらく

 そこで、小川君の話に戻しますけども、今日ご覧になった以外に『1000年刻みの日時計』という作品があります。農民の目で見た稲の生長記録を延々とやるわけです。なんでこんなことをやってんだろうと思います。観ている間にそう思わなくなる。今度は土地を発掘する。だんだん古いものが出てくる。次は民間伝承を役者を使ってやる。さらに、藩の圧政に立ち上がった農民が裁かれるシーンをやったりする。最後にはみんなが行進していくところで終わる。大ざっぱに申しますとそういう形になっていると思います。ここで、小川君が本当に、「過去を語り、現在を語りながら、それをばねにして未来を切り開く」そういうものをつかんだなという感じがするんです。その意味では、私はとても及ばないし、追い越そうという心持ちはございますけども、なかなかそうはいかないだろう。やっぱり記録映画のすぐれた監督を失って本当に残念だな、と思いますけども、やがて小川の志を継いだ若い人たちが出てくるだろうと思います。そう申しあげると恐縮するかもしれませんが、吉田博くん[1991年南陽8ミリクラブが開催した「全国アマチュア映像コンクール」での受賞者]はその1人じゃないでしょうか。やはり、「透徹した批判をする目と変革する気持ちを持て」というのが小川君の志だと思います。私も年ですから、あと何年やっているかわからないですけども、せっかく小川を追いかけてきたのですから、これから先も小川を追いかけていこうと考えています。つまらない話を長いこと申しあげて恐縮しました。ありがとうございました。

(採録・構成 木村裕子)