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映画のドキュメンタリー性の変遷第2弾

善と悪、そしてドキュメンタリー
――表現の義務論と解釈の倫理について

ケース・バカー


 ドキュメンタリーの変遷シリーズは1995年の映画100年を記念して本誌にて映画と現実の関係と歴史を探るべく、小松弘氏(DB#5)、ビル・ニコルズ氏(DB#6)、マイケル・レノフ氏(DB#7)、粉川哲夫氏(DB#8)を執筆者に迎え連載を掲載させていただきました。あれから10年、山形映画祭のインターナショナル・コンペティションの応募条件ではフィルムのみからビデオへの拡大があり、小型なカメラで撮影された作品もフィルムと同様に上映されるようになりました。一方で、今やかなりプライベートな領域にまで及んでいる作品もめずらしくなくなり、時には大きな議論に発展することもあります。作家と対象の関係は既に多くの研究者に語られている問題でありますが、最近のニュースを見るとその関係はさらに複雑化しているようでもあります。さらにはそれを見る観客も忘れてはならない存在です。ドキュメンタリーと現実の変遷を軸に作家、対象、観客、そしてそれを提供する側(テレビ、配給会社、映画祭)、異なる国と倫理観等、多様な視点を含めた連載を各国からの新たなる執筆者を迎えて、今再び、探究いたします。第2弾の第1回目は本誌の顧問委員であるケース・バカー氏に西ヨーロッパを中心にドキュメンタリーにおける倫理的側面について考察していただきます。

編集部


 映画『The Five Obstructions(5つの妨害)』(2003、デンマーク)の中で、ラース・フォン・トリアーはヨルゲン・レスに、自分の1967年の映画『The Perfect Human(完全無欠人間)』のリメイクをするよう依頼する。それも1度ではなく、5度だ。そして5度とも、フォン・トリアーによる奇妙な条件が付けられている。別の映画監督に自分の映画のリメイクを頼むのは、犯罪行為と呼ぶべきだが、レスはその遊びを受け入れた。『The Perfect Human』は、人間の行為を描いた、スタイリッシュだが皮肉で詩的な映画で、広告業界から着想を得ている。レスが最初の課題を終えた時――その時はワンショットで12コマ以上使ってはいけないという条件があった――フォン・トリアーの失望は誰の目にも明らかだった。無謀ともいえる条件や、長いショットが彼の特徴のひとつであるにもかかわらず、レスが美しい映画を生みだすことに成功したからだ。その仕返しとして、フォン・トリアーは、また条件をさらに付け加えることによってレスの倫理を試すことにした。その条件とは、レスがよく撮影していたような、世界でもっとも惨めな場所で撮影をし、しかしそれを見せないことだった。そしてレスが男の役を演じ、映画に大量の食事が登場すること。男が世界でもっとも貧しい人たちの目の前で大量の食事を食べるのを、惨めさを見せずに撮影するのは、どんなに控え目に見てもエレガントとは言えないが、しかしレスはその挑戦を受けて立ち、ムンバイのもっとも悲惨な地区へと旅立っていった。

 このことは、フォン・トリアーとレスが対話の中で「観察者の倫理」と呼んだ議論を思い出させる――映画作家がここでの「観察者」だ。ドキュメンタリー映画の制作における倫理は頻繁に議論の対象になり、そしてたいていの場合、撮影者とその撮影対象の関係に焦点が向けられている。しかし、問題はそれだけではない。この小論の中で、私は、ドキュメンタリーという表現を、倫理がさまざまなレベルの役割を果たすコミュニケーションのひとつの行為(アクト)、または活動と見なすことによって、それに含まれるさまざまな倫理的側面について論じていきたいと思う。最初の行為(アクト)――そしてドキュメンタリーについての文章でもっとも論じられる点は、撮影行為そのものと、映画作家と撮影対象の間の関係だ。ドキュメンタリー作家は、その対象をどのように扱うことが許されているのだろう? 対象の尊厳を損なうことなしに、彼らの姿をどのように見せることができるのか。第2の行為(アクト)もまた広く議論されているが、しかしほとんどの場合、記号学的観点から語られている。それは、メッセージとしてのドキュメンタリーと、 リアリティの関係である。つまり表現という行為(アクト)だ。“客観性”、“真実”という考え方は、依然として、ある映画がドキュメンタリーかどうかを判断する基準となっている。第3の行為(アクト)は、倫理という観点からはほとんど論じられていないが、しかしそれを論じる必要性は日ごとに高まっている。ドキュメンタリーが表現される手段と、それを配給する者、放送する者だ。近ごろでは、ドキュメンタリーは資金の調達と配給を主にテレビに頼っている。しかし放送局側は、彼らのルールをドキュメンタリーに押しつけようとしているようだ。彼らのこのジャンルに対する姿勢は、“本物”のドキュメンタリーを作り続けている作家たちを、時代遅れの変人や、または大衆を操る存在とまで見なしている。最後にもうひとつ大事なこと、そしてドキュメンタリーの倫理という観点からは滅多に論じられないことは、観客によるコミュニケーション行為(アクト)である。哲学において、倫理は行為・態度に関連して論じられる――つまり、善と悪を区別しようとしている。哲学としての倫理は、“実践哲学”または“行動の哲学”と見なすことができるだろう。映画制作とは、対象の扱い方に関するモラルの問題も含意する行為(アクト)(第1の行為(アクト))であることを、またドキュメンタリーとは真実を語ること(第2の行為(アクト))であることを、否定する人は誰もいないだろう。さらに多くの人は、それゆえ放送すること(または一般的に見せるということ――第3の行為(アクト))には、倫理的な行為が含まれることに同意するはずだ。しかしながら観客は一般的に受け身の存在と見なされている。観客はただ椅子に座って映画を見るだけの存在と考えられていて、彼らが行うもっとも重要な行為(アクト)、“解釈”については、ほとんど考察がなされていない。

 以下に述べることは、ドキュメンタリーの倫理的側面を詳細に論じているわけではない。むしろ、アカデミックな世界でも、ドキュメンタリーに携わる人々(映画作家から放送局、観客まで)の世界でも、もっと注目されるべきであるこれらの問題に対して、単に考察点や思考を加えただけである。そして、倫理的な価値観は、国によって、また個人によって異なるために、ここでは、私自身が生活し、そのため間違いなく私の世界観を決定づけている(西)ヨーロッパ的な文脈でのみ語ることにする。

行為(アクト) I:撮影

 ヨルゲン・レスをムンバイに送りだす前に、ラース・フォン・トリアーは彼にこう言った。「難民キャンプの中で死にかかっている子どもを撮影し、そこに『The Perfect Human』からのセリフを加えるとしたら?」「断る」と、レスは答えた。「私はそこまで悪人ではない。」どうやらレスの倫理的価値観によると、不幸な子ども(または撮影の対象者一般)を、単に美学的な喜びのため、さらには金銭的な儲けのためだけに利用するのは、“悪いこと”であるようだ。それゆえ、彼はそれを拒否した。それでも彼は、世界でもっとも惨めな場所で、惨めさを見せることなしに大量の食事を食べるという条件は受け入れた。しかしそれでも、レスの倫理的価値観はその映画作りに影響を与えている。フォン・トリアーのもとに持ち帰ったリメイクで、彼は例のシーンを半透明の背景で撮影し、その背景の後ろから、男女や子どもたちが寄り集まって食事を目撃するようになっている。あからさまに見せていないとはいえ、彼らの困窮は見る者の目に明らかであり、そのことによって、映画は倫理的な観点から見て“よい”ものになっている。それは、フォン・トリアーの望みとはまさに正反対である(それゆえ、“任務不履行”である)。

 以上のような倫理に関する考察は、主にドキュメンタリーの倫理についての文章で扱われてきた。アラン・ローゼンタールの『New Challenges for Documentary(ドキュメンタリーへの新しい挑戦)』は、1章を割いてドキュメンタリーの倫理について述べていて、そしてそのほとんどの文章は、映画作家の撮影対象に対する責任を扱っている。ローゼンタールは、その章の冒頭で次のように述べている。「この問題はごく簡単にまとめることができる。映画作家は人々の生活を利用し、そして衆目にさらしているのだ。この対象の利用はしばしば立派な動機のもとに行われるが、時に撮影対象に対して、不測の事態や深刻な結果をもたらすこともある。そのため根本的な疑問は、映画作家は撮影対象に対して、どのような配慮をする義務があるか、またはどのような責任があるか、ということになる」(Rosenthal、246)。

 ヨーロッパ人権条約(第8条)は、欧州理事会によるジャーナリズム倫理についての決議(第23条)と同様に、「私生活と家族生活を尊重する権利」について言及している。しかしながら、この基本的な権利は、つねに他の基本的な権利とせめぎ合っている。たとえば、表現の自由の権利、情報を得る権利(それぞれ第10条、第8条)だ。しかしなぜ私は、ドキュメンタリーを語る時にジャーナリズムの倫理について言及しているのだろう? そのことについてはこの後の行為(アクト)のところでさらに深く検証するが、とりあえず次のことを述べておきたい。第1に、ドキュメンタリー作家が頻繁に主張する権利は、まさにその同じジャーナリズムの権利であるということ。第2に、倫理がある種の役割を果たすようなドキュメンタリーに対する判例では、ジャーナリズムの倫理規範についての言及がしばしばあるということ――ただドキュメンタリーは真実を扱うという“単純な”理由があるために。反論はまだ控えていただきたい。後で詳しく論じていくつもりだ。

 それでは、映画作家は撮影対象に対して、どのように責任を持てばいいのだろう? その答えはたいていの場合、“インフォームド・コンセント”だ。映画作家は、撮影対象に対して自分がどのように描かれるか、そしてそれが彼らの人生にどのような影響を与える可能性があるかについて、知らせなければならない。対象者からの同意は、威嚇や強制によって得てはいけない。または、肉体的、精神的に同意する能力がない人からの同意にも効力はない。簡単に聞こえるかもしれないが、しかし実際はその正反対だ。第1に、映画作家は、いつでも撮影対象者とコミュニケーション可能な立場にあるわけではない。第2に、「同意するか否かを決断することに影響を与えるだろうと思われる事実を省いた場合、得られた同意は無効となる」(Rosenthal、262)というカルヴァン・プリラックの言葉に従うなら、ドキュメンタリーに登場することに伴う意味を撮影対象者に説明するのに、どれくらいの年月が必要になるのだろう? これは単なる皮肉ではない。私が思うに、ドキュメンタリーとは何であるか、またある特定のドキュメンタリーがどのような結果をもたらすかについて、可能な限りすべての情報を提供すること、そしてその映画に加えられる可能性のある解釈や、またはその結果起こることをすべて予測するのは、とにかく不可能なのだ。それに加えて、映画作家は、できあがった作品を撮影対象者に見せる立場にいつでもいられるわけではない。ある種の結果にいたるためにお金が必要なこともあり(これは強制される時もあるのでは?)、そしてまた、映画が他の場所、他の文化の中で公開された場合、その影響力と、それにもたらされる解釈は、かなり異なるだろう。しかし、可能な限りのインフォームド・コンセントを目指すことは必要である――そして、彼らが同意したことを後で後悔しないのを祈ろうではないか。

 一方で、近ごろではメディアがいたるところに存在しているために(少なくともヨーロッパでは)、ドキュメンタリーに登場することの意味について、ある種の思い込みがあるとも考えられる。さらに悪いことに、撮影対象者は、自分の身に起こるであろうことをすでに知っているために、撮影に反発するかもしれない。 これもまた皮肉でも何でもなく、以上のようなことは、ドキュメンタリー作家のニコラ・フィリベールが、自作の主人公の小学校教師に、背かれた理由を説明しているかもしれない。何カ月にもわたる準備と撮影、そしてすべての登場人物また彼らの両親(未成年の場合)の許可も得た結果、フィリベールは、フランスの片田舎にある教師がひとりしかいない小学校についてのドキュメンタリーを完成させた。その映画は、『ぼくの好きな先生』(2002、フランス)だ。誰もがその映画のできあがりに満足していた。自分の子どもが好意的な内容の映画に登場することを誇りに思い、そして自分たちの先生のことも誇りに思っていた。しかしそれも、この映画が180万人の観客を動員してボックスオフィス記録を更新し、多くの放送局に売られ、DVDも好調な売れ行きを見せるまでのことだった。教師のジョルジョ・ロペス氏が、フィリベールを、偽造(自分の授業の一部が映画に描かれているという理由で自分は共同製作者であり、DVD等不正に複製されていると主張した)と肖像権侵害で訴えたのだ(肖像権とは、私生活を尊重される権利から派生した権利だ)。児童の親たちは、それぞれ2万ユーロを要求した。彼らは、映画の中であるシーンをくり返すことを要求されたこともあったので、子どもたちは俳優と同じだと主張した。

 ドキュメンタリーに向けられるすべての攻撃は、その根元に欲がある。ドキュメンタリーの存在にとって幸いなことに、すべての訴えは退けられた。そこにインフォームド・コンセントがあったからだ。ロペスは、映画制作の創造的な過程に一切携わっていないために、共同製作者とは見なされない。その映画は、彼が著作権を主張できるような形で、彼の授業の内容を複製していない。そして俳優の件に関しては、ロペスと児童たちは、単に仕事をしているところ、教育を受けているところを撮影されただけであると、判事は判断した。それは「普段の生活」であり、「演技という概念を含まない、現実に即した記録的な事実」である。「我々は映像泥棒ではない!」という叫びをすでに上げていたフランスのドキュメンタリー作家たちは、この結末に大きな安堵の息をもらした。

 以上のすべては、ひとえに、映画作家と撮影対象の関係において、倫理は片道切符ではないということを意味している。映画作家にはもちろんある種の責任があるが、撮影対象者を、ただの受け身的な犠牲者、ただドキュメンタリー的な“処置”を受けるだけの存在と見なすべきでもない。特に、ほとんどすべての人間が大量のメディアを消費しているこのような時代(西ヨーロッパでは、と付け加えておくべきだろう)においては、なおさらである。そして、撮影対象であり、市民であるということは、行使することを許されている権利を持つということを意味する。たとえば、EUによる国境なきテレビは、「反論の権利」という規定を設けている(第22条)。「…すべての人、または法人は、国籍にかかわらず、その正当な利益、特に評判と名声が、テレビ番組(ドキュメンタリーも含む)による、事実と異なる主張によって傷つけられた場合、反論すること、またはそれと同等の補償を受ける権利を有する」

 この件について語るべきことはまだまだあるが、前にも述べたように、ドキュメンタリーの倫理におけるこの側面については、たとえばローゼンタールの著書だけでなく、ブライアン・ウィンストンの『嘘、とんでもない嘘、そしてドキュメンタリー(Lies, Damn Lies and Documentaries)』も後半の2章に亘って、すでに広く論じている。

行為(アクト) II:真実を語ること

 ドキュメンタリー制作者は、歴史的事実、または実際の事実をもとにしたテーマと対象を、創造的に処置する作家であり芸術家であるという考え方は、どうやら時代遅れになりつつあるようだ。メイスルズ兄弟、ジャン・ルーシュ、そしてテレビの功績により、ドキュメンタリーは、「音と映像のジャーナリズム」の別名になった。私はここで少し大げさに語っているが、しかしこの仕事に携わる人間(映画作家、放送局、そして観客)の世界では、ドキュメンタリーの定義は、過去数十年の間に、間違いなく――しかし主に暗黙のうちに――狭められてきた。このことは、ドキュメンタリーがどのように現実を表現するべきかについて、そして境界線のあり方についての考え方に、独自の影響を与えている。

 さて、ドキュメンタリー映画80年の歴史とその“創造性”のことは一旦忘れ、しばらくゲームに興じることにしよう。ここでもまた、ドキュメンタリーの倫理はジャーナリズムの倫理と同じであると仮定し、欧州理事会によるジャーナリズム倫理についての決議を参考にしてみる。なぜなら、そこにはたしかに興味深い事柄が含まれているからだ。まず第1に、“ニュース”と“意見”の区別である。「ニュースは事実とデータに関する情報であり、一方意見は、思考、アイデア、信念、または価値判断を伝える…」(第3条)。ニュースにおけるキーワードは“真実であること”であり(第4条)、一方、意見において大切なことは――“真実”と“客観性”が適切でないとみなされた場合――「誠実に、そして倫理的に表現されること」であり(第5条)、そして「事実やデータの現実を否定したり、隠ぺいしたりしないこと」(第6条)である。以上のこと、または定められたほとんどのジャーナリストの倫理規定に関して、私が驚きを覚えるのは、それが150年ほど前に流行した実証主義を基盤にしているかのように見えることだ。(科学の)哲学における最近(すなわちここ100年)の発展、ポストモダン的思考、そして修史論は、規範を定めた人々の目には未知の世界のように映るだろう。たしかにその決議が定められたのは1993年であり、ジョージ・W・ブッシュ(哲学者ではない)という人が、“事実とデータの現実”を決定するのは、それらを利用し、作りだす人々(=競走馬のブリンカーをしている人々)のイデオロギー的、政治的な利害に他ならないとはっきりと宣言したのも、つい最近のことである。事実はデータと同様に、ある種の表現である。そして私は、表現は解釈であると考える人々(ポストモダニスト?)の一員だ。それゆえ、事実の現実(についての情報)は、解釈の現実である。ジャーナリストは、ニュースを“物事のあり方”ではなく、“物事の見方”と見なさなければならない。真実と客観性は、現実と一致するものと考えてはいけない。特にジャーナリズムに関しては、「世論からの意見の世界、マスメディアの世界に…一致としてではなく解釈としての真理の理論が存在するかもしれない」(Vattimo、115)というジャンニ・ヴァッティモ(哲学者、欧州議会議員)の言葉を、反復する必要がある。真実とは、ある特定の世界観と関係し、そして客観性と同様に、それは「ある特定の世界観と一致する」ものとして見なすことができる。「ラジオ、テレビ、新聞は、ある世界観を世間に爆発的に増殖させる要素になった」(Vattimo、5)ということを、心にとどめておく必要がある。ドキュメンタリーもその一部だ。

 以上のようなことすべては、私たちがニヒルな相対主義者にならなければならないことを意味しているのか? いや、私はそうは思わない。ポストモダン主義者の中には、世界の客観性に関して絶望したり、無関心に陥ったりする人もいるが、私たちはそうなるべきではない。私が思うに、ポストモダン主義者の目的は、事実やデータや、真実であるという主張を、否定することではない。私が考える彼らの目的は、それらを(別の)文脈に置き換えること、そして特に、自分たちが物事の意味づけをする文脈に自覚的になり、その結果、それらの事実やデータや真実の主張が、違った観点、違った世界観から分析される時、他の意味を生みだせるようになることだ。特にドキュメンタリーやテレビのニュース番組においては、真実の主張がすべての核心にある。これを否定してしまうと、それらの番組やドキュメンタリー、そしてそこで描かれる出来事を、理解したり説明したりすることがとたんに不可能になる。「現実の世界は寓話になった」とは、ニーチェの有名な言葉だが、だからといって、彼の言葉から、この寓話は信用できないという結論に達してはいけない。むしろ私たちは、この寓話から、世界に対する理解を築いていくしかないのである。「メディアや人文科学から受けとる世界のイメージは、水準こそ違えど、ともかく所与のものである現実についてのさまざまな解釈というだけでなく、むしろ世界の客観性そのものを形成している。…我々が“世界の現実”と呼ぶものは、“物語作り”の多様性のための文脈であると認識したほうが、より理にかなっているだろう。そして人文科学の役割と重要性は、それらの観点から世界に主題を与えることに他ならない」(Vattimo、24-25)

 ここでの倫理的な立場は、ニュースとドキュメンタリーを、それぞれの現実の文脈をきちんと認識して理解することだ。ニュースは正確で客観的かもしれないが、しかしこの正確性や客観性は、そのニュースが存在する場所の世界観によって制限されているということを、意識しておく必要がある。それと同じ意味で、意見は正直で倫理的でなければならない。それらが含意する世界観をつねに意識するのだ。ジャーナリズムと同様に、ドキュメンタリーの世界でも、現実はもっとも重要事項である。したがって、ドキュメンタリー作家にもまた、正確で誠実であるという道義的な義務がある――以上に述べたような意味において。

 では具体的に、ドキュメンタリーの表現における正確さと誠実さの制限とは、いったい何だろう? 幸いなことに、ドキュメンタリーには“べき”“べからず”を定めるバイブルは存在しない。しかし以下の物語は少なくとも何かを考えるきっかけになり、そしてどんなに多くの世界観を共有していても、倫理的な価値観は人によって異なるということを理解させてくれるだろう。ここでの事例は、『Ford Transit(フォード・トランジット)』(2002、オランダ)というドキュメンタリーだ。監督はハニ・アブ・アサドで、VPRO(オランダ公共放送)の依頼で制作された。この映画はパレスチナのタクシー運転手の物語で、彼は占領地域のイスラエルによる道路封鎖に何度も悩まされる。VPROは、その映画のシーンが作られたものであり、タクシー運転手は本物のタクシー運転手ではない(つまり演じている)という情報が流れると(BBCによって!)、オランダ映画祭への出品を取りやめる決定を下した。VPROは以前にもアブ・アサドと仕事をしたことがあったので、フィクションと現実を組み合わせる彼のやり方はわかっていた。この映画作家は、自分の手法を変えなかったことをVPROに知らせなかったという点で、たしかに落ち度があったかもしれない。映画に俳優を使ったからといって、パレスチナ占領地区に暮らす多くのタクシー運転手や、他のパレスチナ人たちの日々の生活が変わるわけではない。しかしそれでも、VPROはその映画を「正確でない」と見なした。なぜなら、作られたシーンだったからだ。ここで「再構築の連続体」というウィンストンの考え方を参考にしてみると、フィクション(すべてにわたって映画作家が介入したもの)と事実(介入がまったくないもの)の区別をつける助けになるかもしれない。彼は次にように言う。「演じること、それだけなら間違いなくフィクションであり、目撃された歴史を再現することはドラマ的なドキュメンタリーである。しかし連続体にあるそれ以外のすべての点はドキュメンタリーにとって正当的なものである」(Winston、106)。ウィンストンの(英国的な)見方によると、『Ford Transit』はドキュメンタリー ・ドラマと呼ばれることになるが、だからといって、この映画のすべてが、目撃された歴史を演じること、というわけではない。私はさらに、配給と映画祭への出品を検閲するVPROと比べると、アブ・アサドは、俳優を使ったという点においてより誠実であり、パレスチナのタクシー運転手の状況をより正確に描写しているとまで主張したい。なぜならVPROは、ドキュメンタリーで作られたシーンを使うことは、パレスチナ占領地区における道路封鎖の影響を伝えることよりも、大きな罪だと考えているように見えるからだ。しかしこの問題についてどのような道義的判断を下すかは、それぞれの個人にかかっている。俳優を使うことは、ジョルジョ・ロペスと『ぼくの好きな先生』制作チームの対立に下された判決――「ドキュメンタリーの事実は、その現実との関連において、“演じる”という概念を除外する」――とは正反対であることを、ここで触れておくべきだろう。判事がもしそのことを認識していたら、どうなっていたかと思うと、笑ってしまうのだが…。

行為(アクト) III:見せること

 最近のドキュメンタリーは、特にヨーロッパにおいて、その資金調達を放送局に頼っている。ほとんどの映画出資者は、ドキュメンタリー映画に資金提供を決める前に、まず映画作家に放送局との契約を結ぶことを要求してまでいる。それらの放送局の担当者たち、彼らの多く、ドキュメンタリー(または事実に基づく番組)の制作、出資に責任を持つその他の人々は、どうやらドキュメンタリーが何であるかについて、まったくわかっていないようだ。なぜなら、彼らの中には子ども番組部門からドキュメンタリー部門に移ってきたばかりの人もいれば、以前は出版社で働いていた人もいるからだ。しかし彼らはこう考える――ドキュメンタリーなんて誰でも知っているさ、そうだろう? ドキュメンタリーとは、真実を“語る”こと、またはそれと似たようなことだと考えている人もいる。または、ドキュメンタリー映画の制作に、創造性はまったく必要ないと考えている人もいる――「ドキュメンタリー作家は芸術家ではない」というわけだ。残念なことに、これは冗談ではない。私は1度ならず、放送局の担当者たちから「ドキュメンタリー作家はただの記録マシーンだ」というような言葉を聞いたことがある。ジョン・グリアソンが草葉の陰で泣いていることだろう。ドキュメンタリー映画の歴史について何らかの知識がある人は、放送業界ではごくまれな存在なのだ。

 ダイレクトシネマとシネマヴェリテによって、このモデルが作られた――ドキュメンタリー作家は、人々を観察し、記録し、人々から話を聞く。調査報道や、またはブライアン・ラッピング的な映画が、今日のドキュメンタリーのあり方を決めているようだ。カメラに向かって語る人々の顔(VIPであることが望ましい)のトーキング・ヘッド・シリー
ズが、出来事を説明し、おいしい秘密を暴露する。そしてそこに、ニュース的な映像をいくらか添える。たとえばティエリー・ナウフのような変わり種と、彼の作品の『Wild Blue--notes à quelques voix(ワイルド・ブルー)』(2000、ベルギー)は、その芸術性を高く評価されているが、映画祭の外で上映されることは滅多にない。なぜなら、“規格に合わない”からだ。第1に、その映画は、52分でも53分でもなく、66分だ(もちろん、放送局が作品をカットするのに、良心の呵責を覚えるというわけではない。2003年アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭で大賞であるヨリス・イヴェンス賞を受賞した『Checkpoint(チェックポイント)』(2003、イスラエル)は、テレビ放送に当たり78分から53分に短縮された)。第2に、それは白黒の作品だった(もう誰も白黒映画を見たがらない)。そして第3に、その映画には明確な語りがまったくなかった――つまり、観客は映画を見ながら考えることを強いられる。さらに加えて、前にもすでに述べたように、放送局は、以前にも増してドキュメンタリーにジャーナリズム的な規範を押しつけるようになってきている。すなわち、ドキュメンタリーは現実を描写しなければならず、そしてそれゆえ、シーンを作ること、主観的になること、フィクションの要素やそれに準ずるものを使用することは許されない。もちろんこれは一般論であり、大げさに言っている面もあるが、しかしこの種の傾向が存在することは明らかだ。

 ヨーロッパ人にとっては幸いなことに、ヨーロッパにはEUによる「国境なきテレビ」法案が存在し、それによって放送局が独立プロダクションに投資すべき金額の割り当てが決められており(放送時間、または制作予算の10パーセント)、ほとんどの国もさまざまなジャンルのテレビ番組に対して割り当てを定めている。中にはドキュメンタリーと明記している国もあるが、しかしそれも雑誌や情報・実録番組と同一にくくられている。それ以外は、ただ実録番組としか記していない。多くの放送局は、これらの割り当てを最低基準としてだけでなく、最高基準としても用いている。それも理解できることだ。なぜなら、彼らにしても利益を出さなければならいからだ。2003年の夏にフランスで行われた活発な議論が、この点をわかりやすく描写しているだろう。フランス第1の民営放送局、TF1の会長、パトリック・ル・レイは、そこでこう宣言した。「私たちがコカ・コーラに売っているものは、人間の脳が手に入る時間である。」それはつまり、コマーシャルの間に放送される番組は、テレビ視聴者にそれらのコマーシャルに向けて心の準備をさせる時間でしかないということだ。その文脈において、私たちはさらに、エンデモル(『ビッグ・ブラザー』、『スター・アカデミー』などの制作を手がけた)のような会社もまた独自の制作者であり、そしていくつかの放送局は、ダイレクトシネマの究極の形――リアリティ・テレビと呼ばれてドキュメンタリーと同じジャンルに分類されている――を取る傾向があり、割り当てと時間枠を実録番組に使い切るということを、心に留めておく必要があるだろう。彼らがそうするのも、ひとえに、リアリティ・テレビの利益のほうが、カタツムリの性生活についてのドキュメンタリー番組のそれよりも、かなり多いからである。

 公共放送局は依然としてドキュメンタリーの救世主だが、彼らも民営放送局と競争しなければならず、その競争が、真のインディペンデント系のプロダクションと彼らが放送する番組の水準維持にとって脅威になってきている。パトリシア・ジマーマンは、この「ドキュメンタリー戦争」をアメリカの文脈から分析していて、それはヨーロッパの文脈とは少し異なるが、そこに見られる傾向は同じである。ニュースと実録番組(ドキュメンタリーも含まれる)が、公共放送と民放の競争の新しい戦場になっているのだが、それにはリスクがあるとジマーマンは指摘する。「公共の場所と私企業の場所、公務と私的な事業、抵抗活動と協調組合主義的な多文化性、アイデンティティー・ポリティックスとニッチ・マーケティング、国と世界のはっきりとした境界が、あいまいになってきた」(Zimmermann、50)。ここヨーロッパでは、アメリカの最近の出来事や、ある種のニュース・チャンネルの機能のしかた、映画『Outfoxed(出し抜く)』(2004、アメリカ)で暴露されていたようなことに対して、多くの人が眉をひそめる。そして彼らは、そのような事態は“旧大陸”では起こりえないと考える。しかしヨーロッパでもまた、経済的な利害が、政治的、イデオロギー的、道義的な価値観を支配し、そしてメディアの世界では、現実と呼ばれるものとそれを扱う製品が、やはり経済の影響を受けている。

 視聴率とドキュメンタリーの編成をめぐるこの争いによって、ドキュメンタリーそのものの概念と定義が狭められるだけではない(そのことについてはすでに述べた)。むしろ、その争いは、表現技法一般、特に現実の世界で起こっていること、すでに起こったことについて、背景となる情報と思考の基盤を一般大衆に与えるのに必要な、主観的で解釈的な――主張があって思考を喚起するような――論調を、短絡化させている。そのようなことを考慮して作品を作り、一般に見せることは、私のつたない意見では、ドキュメンタリーの神聖な役割のひとつである。しかし作品を見せる権限を持つ人たち――放送局と配給会社――もまた、同じ役割を担っている。表面に見える現実の裏にあるものを伝えること、そして番組編成に関しては正しい優先順位を設定すること、まさにそのことが、(公共)放送の義務である言えるかもしれず、そして義務の一部であるべきだ。あまりにも理想主義的な考えかもしれないが、少なくとも一考に値するはずである。

行為(アクト) IV:解釈

 ドキュメンタリー映画作家、そして放送局もまた、一般的に、撮影対象や自分の作品を見せる対象に、ある特定のグループを想定している。それはつまり、映像、ナレーション、そして編集の解釈のされ方について、ある予想を立てているということを意味する。作品を作る側も、撮影、編集、執筆、選別の段階で、自分の周りの世界を解釈しているのだ。実際、映画を見る観客も、解釈された世界を自分なりに解釈している。このことは、それぞれの映画作家が持つ倫理的(義務的)立場の重要性だけでなく、観客を単なる受け身的な消費者と見なすべきではないということも強調している。解釈は行為(アクト)のひとつ――コミュニケーションの過程における根元的な行為(アクト)なのだ。

 ある意味で、リュミエール兄弟の機関車がスクリーンに登場した1895年には無知だったかもしれない観衆は、メディアが遍在する今の時代、もう無知とはいえなくなってきている。とはいえ、それだけでは十分ではない。メディア・リテラシーは高校の必須科目になるべきであり、そしてテレビがくり返し嘘を伝えているにもかかわらず、観衆は依然として、動く映像は信頼できるとものとほぼ無条件に信じている。しかし彼らは、ただの愚かな犠牲者ではない。映像を積極的に消費する知的な存在であり、現実と嘘、ドキュメンタリーとフィクションを見分ける能力を、どんどん高めてきている。ドキュメンタリーが架空の要素を用いた時でさえ、近ごろの観衆のほとんどは(おそらくVPROの人間を除いては)、それを適切に評価することができる。その意味において、自分の世界観にある程度自覚的であることを、ドキュメンタリー作家だけでなく、観衆にも期待することができるだろう。道徳的基準がある世界の指導者たちによって強制されている時代において、それらの基準にどんどん異議が唱えられるようになり(実際疑問の余地あり)、そして基準が絶対的でなくなってきたのは明らかだ。グローバリゼーション――そこでメディアは重要な役割を果たしている――の利点のひとつは、異文化との出会いと、異なった文化は異なった道徳規準をも意味するという認識の浸透である。世界観が異なれば、倫理も異なるのだ。

 楽観的に考えれば、観衆である私たちは、さまざまな世界観のせめぎ合いの中から、違う世界観の価値を認め、それをもっとバランスのとれた見方で解釈する方法を学んでいるといえる。しかしながら、他者を判断する時、自分自身の道徳的基準を離れるのはとても難しい。全世界でニュースになったオランダでの最近の出来事は、その点を痛烈に示している。2004年11月2日、映画監督で作家のテオ・ファン・ゴッホが、あるイスラム過激主義者に、銃と刃物で襲われ殺された。この残忍な行動(過激主義は一般的に、“よい”道徳的価値観と同列に語られないものだ)の動機は、ファン・ゴッホの挑発的な記事と、彼がオランダ国会議員でソマリア系(イスラム系)のアヤーン・ヒルシ・アリと共作した『Submission(服従)』(2004、オランダ)という映画だった。映画監督暗殺というひとつの行動がきっかけとなり、それに続いていくつかの暴力的な行動(モスクやイスラム学校の放火やそれに報復する教会の放火)と、感情的な議論が起こった。ファン・ゴッホによる、イスラム世界、特に過激派に対する、挑発的で、つねに侮蔑的な発言は、多文化への尊重を示しているとはいえないが、殺人はそれ以下の行為である。しかし私はここで、映画そのものに焦点をおいて話を進めたい。『Submission』は、ベールをかぶった女性がアラーに祈る様子を撮影した短編映画だ。ベールの前面は透ける素材でできていて、コーランの一節が書かれた女性の裸体が見えるようになっている。彼女は祈りの中で、アラーへの服従、そして夫と他の男性の家族への服従を告白し、それと同時に、それらの家族たちによる虐待と暴力の様子を細かく描写する。祈る女性の姿の合間に、切断された女性の体の一部の映像が挿入される。服従の告白と、服従によって受ける苦難。そのまるで正反対のイメージの対比は、見る者の目にあまりにも明らかに映り、そしてあまりにも痛々しい。イスラム教について基本的な知識を持つ者なら、この映画が、どんなに控え目に言っても挑発的であることを理解するだろう。しかしオランダの社会――信心深く、それと同時に、どんな宗教や伝統や儀式に対しても、批判や風刺や嘲笑を向ける長い伝統を持つ社会では、この種の自己表現は、前にも言及したように、表現の自由の権利によって完全に守られている(表現の自由の権利にもやはり制限はあることも、ここで指摘しておくべきだろう)。

 異なる世界観を理解しようとする意志、それを認識し、尊重する能力は、おそらく、西ヨーロッパにおける解釈の倫理の基本的な要素だろう。『Submission』の例に限らず一般的に、観衆は映画のメッセージに同意しないこともある。ここでもっとも大切なのは、観衆が、映画の裏にある世界観を理解すること、また少なくともその存在を認識することだ。ある社会の一員なら、最低でもその社会の道徳を尊重することができる。ドキュメンタリー映画を見る時は、異なった世界観と対面することを覚悟しなければならない。最後にもう1度、ジャンニ・ヴァッティモの言葉を引用したい。彼は解釈学――解釈の哲学――の倫理的基盤を強調し、次のように言った。ハーバーマス的な用語を使って「解釈学とは、世論の社会の哲学、マスメディアの社会の哲学である。ハイデガー的に表現すれば、解釈学は、さまざまな世界観が衝突せざるを得ない時代の哲学だ」(Vattimo、113)。メディア・リテラシー(それは教えられるべきだが、私が思うに、平均的な観衆の大部分は備えていると期待できる能力だ)は、マスメディアとドキュメンタリーには必然的に解釈がつきまとうという、コミュニケーション行為(アクト)におけるこの認識を、含んでいるべきである。真実の経験は、ある特定の世界観と結びついた“真実”であり、そしてその世界観は他の世界観と対立するかもしれないという認識によって、フィルターにかけられなければならない。現実を扱い、多くの世界観を表現するドキュメンタリーは、その認識を高めるかっこうの手段である。そして私はさらに、ここで言う“ドキュメンタリー”は、映画作家、放送局、観衆、そしてその他の多くがかかわる、コミュニケーション的行為(アクト)として理解されるべきであると強調したい。それらの存在はすべて、作品に積極的に参加しているのであり、世界観の表現と解釈の両方として理解される。

 この文章は、ドキュメンタリーのコミュニケーションにおける倫理的な側面をざっと概観したものであり、とても完全とはいえないが、ここで強調しておきたいのは、以上にあげたコミュニケーション行為(アクト)は分析的な目的によってのみ分類されているのであり、実際のドキュメンタリー作業(の世界)においては互いにからみ合っているということだ。私はここそこで少し大げさな表現を使い、一般化しすぎた嫌いがあるのも否めない。中には、私がVPROに対して恨みを抱いていると思った人もいるかもしれないが、そんなことはない。彼らはオランダでもっとも興味深いドキュメンタリー番組を放送している。私はすべての答えを知っているふりをするつもりなど毛頭ないが、しかし自分なりの意見はたしかに持っている。ここでの意図は、まだまだ議論の足りないこの問題に対して、いくつかの考え方を示すことである。しかし心強いことに、最近出版されたビル・ニコルズの『Introduction to Documentary(ドキュメンタリー入門)』は、ドキュメンタリーの倫理に関する章で始まっている。

 表現と解釈は、同じ絵の両面である。その過程に含まれる義務と倫理は、社会、法律、地域社会、そして個人の、道徳的基準によって決定される。“善”と“悪”の判断は、“真実”が“事実の現実”と一致すると判断するのと同じくらい、主観的な考えに基づいている。善悪の価値判断は、それぞれの個人にゆだねられるものである(そしてこれは、さまざまな社会の独自の法律によって制定、一般化されている)。しかしドキュメンタリーは、以上に述べたようなコミュニケーション行為(アクト)に参加するすべての人が作るものだ。倫理的な問題は、それらの行為にかかわるすべての人、ドキュメンタリー作家だけでなく、放送局、観客、そしてその他の大勢の人にも関係がある。

 最後にまとめとして、また『The Five Obstructions』の話題に触れよう。ラース・フォン・トリアーは、共同監督のヨルゲン・レスだけでなく、観客も相手にゲームに興じていた。ムンバイのリメイク(条件その2)で、レスは、半透明の背景を用いて人々の困窮を観客に見せた。もしこの背景が透明でなかったら、観客は2人の監督の道徳観に対して、異議を唱えることができただろう。しかしフォン・トリアーは、それをはね返した。なぜなら『The Five Obstructions』は、単に『The Perfect Human』の5度にわたったリメイクであるだけでなく、同時にそれらのリメイクの制作過程でもあるからだ――そしてすべての“よい”ドキュメンタリーがそうであるように、その制作過程では、困窮が明確に表現されている。それと並行して、フォン・トリアーとレスは、それらの倫理的問題について考えるという行為に、観客も積極的に巻きこんでいる。

――翻訳:桜田直美

 


ケース・バカー Kees Bakker

映画研究家。『ヨリス・イヴェンスとドキュメンタリー・コンテクスト』編集、またイヴェンスについての評論を多数発表。博士論「Representation and Interpretation of Reality--Towards a Hermeneutics of Documentary Film and Television(現実の表象と解釈――ドキュメンタリー映画及びテレビにおける解釈学に向けて)」を執筆中。

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参考文献
  • Bill Nichols, Introduction to Documentary, Indiana University Press, Bloomington, 2001.
  • Alan Rosenthal (ed.), New Challenges for Documentary, University of California, Berkeley, 1988.
  • Gianni Vattimo, The Transparent Society, Johns Hopkins University Press, Baltimore, 1992.
  • Brian Winston, Lies, Damn Lies and Documentaries, British Film Institute, London, 2000.
  • Patricia Zimmermann, States of Emergency--Documentaries, Wars, Democracies, University of Minnesota Press, Minneapolis, 2000.
参考インターネットサイト
編集部より
 ブライアン・ウィンストン著『嘘、とんでもない嘘、そしてドキュメンタリー』はDocumentary Box #20のDocbox Booksで、また、パトリシア・ジマーマン著『アメリカ非常事態――ドキュメンタリー、戦争、民主主義』はDocumentary Box #19のDocbox Booksで書評を掲載しています。