English

アメリカン・ダイレクト・シネマ


Program 1  火種――アメリカにおける前兆

Program 2  先駆者たち――カナダとのつながり

Program 3  1960――すべてが一変した年

Program 4  危機の構造

Program 5  日々のいとなみ

Program 6  音楽とともに

 

Program 7  権力と治安維持

Program 8  制度へのまなざし

 

Program 9  定点観測

Program 10  リールの中のハプニング

Program 11  水瓶座の時代の終わり

 

Program 12  失われた栄華

 

Program 13  譲らぬ大地

 

Program 14  見ることの儀式

 

Program 15  テレビには不向きなリアル

 

Program 16  革新から制度化へ

 

特別プログラム

 

プログラム2を除くすべての作品の製作国はアメリカ、 使用言語は英語。



台本なしで――アメリカン・ダイレクト・シネマの映画術

 1960年にその登場によって世界の映像文化を揺るがした新たなドキュメンタリーのスタイルは、純粋なかたちでは比較的短命に終わるものでありながらも、非フィクション分野の他の映画制作方式に組み込まれることを通じてかなり息の長く続くものであることが今ではわかっ ている。時代のシンクロ性を顕著に示す事例として1950年代後半にカナダ、フランス、および米国の映画作家たちが――世界を新たな仕方で表象せんとする欲望に駆られて――ある一連の技術的課題を通して思案をめぐらすということがあり、この課題に取り組む中でほどなくして出てきたものはやがて、ダイレクト・シネマやシネマ・ヴェリテと呼ばれるようになった。これは世界規模の出来事ではあったものの、その手法の震源地はアメリカとフランスにあり、またその双方のコンテクストではカナダがきわめて重要な役割を果たしていた。本特集プログラムは中でもアメリカのダイレクト・シネマと、それを取り巻く美学的、政治的、文化的コンテクストへと深く分け入る道筋を呈示するものである。

 1950年代のドキュメンタリーはその時点までにすでに硬直化し、台本書きに基づき、型どおりのインタヴューや「天の声」方式のナレーションやフィクションでの再現があることを基本とするような形式のものになっていた。とはいえその10年の間に、現場での自然な反応を 重んじて詳細な事前計画を控えるドキュメンタリーの力強い新手法をそれとなく示していた作品は、英国のフリー・シネマからカナダの国立映画庁制作のもの、そして当時は本来的に実験的なものだった短編映画(とりわけ『若きファイター』[1953]や『ジャズダンス』[1954]や『バワリーにて』[1956]など)に至るまで、それなりの数がある。これらの作品ではカメラが従来の約束事の縛りから解放されているかのようで、そのことによってドキュメンタリーの新たなる可能性の世界を指し示していたのである。

 だがその野心のためには、重く大きなカメラとテープレコーダー――慎重な光量調整を要するフィルム感度の低さは言うまでもない――が障壁となった。それゆえ仏米両国をはじめとする国々の技師たちは、軽便さを求めて機材をその場で改造することをやり出した。米国では、D・A・ペネベイカーと新たに創設されたドルー・アソシエーツの面々が、オーリコンの16mmカメラから余計な部品をすべて外し、肩に担いで撮影するためのハンドルを取りつける、ということをやっている。これによりカメラが三脚から解放され、手持ちでそれを日常的なアメリカの暮らしの中に持ち込むことが可能になったのである。その努力の最初の成果である『予備選挙』(1960)には、さまざまな観客たちが震撼した。たとえば、ジョナス・メカスは次のように書いている。

『予備選挙』の技法は待ちに待った時代がわれわれに訪れつつあることを示している……すなわち、映画作家が音声つきで、孤独に自分ひとりだけでひっそりと、詩人が光景を観察するのとほとんど変わらない仕方で自作を撮ることができる時代である。かくして『予備選挙』を先触れとして、われわれは映画の転換点を目の当たりにする。そこには、映画はまだ始まったばかりなのだという気配が漂っている。

 アメリカン・ダイレクト・シネマはここから全国へと拡がり、その衝撃は世界各地に及んだ。ダイレクト・シネマの作家たちがやったのは、台本やナレーションやインタヴューを避けること。再現シーンは決して使わず、むしろカメラを意識しなくなるまで被写体に個別につきしたがうこと。そして多くの場合、手持ちでカメラを動かすことである。これはいわゆる「壁にとまったハエ」的手法、もしくは「観察映画」なるものの誕生を意味していた。学校から病院、ロックコンサートや大統領執務室までの生の営みを人知れず捉えるそのやり方にはさまざまな観客たちが驚嘆した。ダイレクト・シネマのスタイルならではの親密感は観客にとって、ジョン・F・ケネディやマーロン・ブランドやボブ・ディランといった普通なら近づくこともできない歴史的な人物が目の前にいるようなものだったのだ。

 時代を画すこの変化は、似たような仕方で手軽に持ち運べる機材を用いたアメリカ以外の地域の作家たちが証明しているように、技術的な問題だけにとどまるものではなかった。もっとも有名な例はフランスで、当地の作家たちは素をさらけ出す状況を煽り立てるのに介入戦略を採用したし、あるいはカナダの作家たちの観察映画にしても、もっと詩的なものになっている。おそらくアメリカの作家たちが対象と距離をとる観察映画的手法を採用したというのは、中核を担う人たちがもともとジャーナリズム(ロバート・ドルー)や工学(D・A・ぺネベイカー)、心理学(アルバート&デイヴィッド・メイズルス)や法律(フレデリック・ワイズマン)――ビル・ニコルズが論じているように、どれも「禁欲の言説」(“discourses of sobriety”)である――の訓練を受けていたことを考慮するなら無理もない、といったものなのだろう。

 この美学的な革命はアメリカ文化のより大きな流れと関連していた。個々の認識を信じ、日常的な現実の奥底にあるものの発見を信じるその姿勢、その筋金入りの反骨精神は、アメリカにおけるプラグマティズムや超越主義と通じ合うものである。また同時に、その頃芽生えつつあった対抗文化の刻印もほぼすべての作品にみてとれる。ダイレクト・シネマの初期を担った作家たちの霊感の源はジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグにあった(後者は『ドント・ルック・バック』[1967]の有名な冒頭シーンにディランの後ろで祈る姿が映っている)し、そもそもダイレクト・シネマのまさしく最初の作品である『予備選挙』からして、ウィスコンシン州の大統領予備選挙に焦点を当てつつ庶民派のヒューバート・ハンフリーと若々しく人を惹きつけるジョン・F・ケネディを対比させることで、今まさに起こらんとしている大変革を記録するというものである。同じ作り手たちは3年後に、JFKとロバート・ケネディ両名が黒人学生2名のアラバマ大学への入学を阻もうとしたジョージ・ウォレス州知事との交渉に臨むという、公民権運動の重要なひとコマへの立会いを許される。こうした政治的関心に加えて、ダイレクト・シネマの作家たちはあらゆる芸術分野における形態の自由にも興味を向け、その正典とされる作品には、イゴール・ストラヴィンスキーやローリング・ストーンズやオノ・ヨーコやマーロン・ブランドといった人びとの制作中の姿を捉えた親密なポートレートが含まれている。

 観察映画スタイルによってナレーションや事前台本を拒んでいるにもかかわらず、われわれの世界を写し取るその「ダイレクト」な映像は、民主主義や投票権、移民問題や難民の権利、貧困、暴力、人種、多様性といった現代生活のもっとも差し迫った課題をダイレクトに論じるのではないかたちで映画作家が取り扱うことを可能にした。ダイレクト・シネマ研究で知られるデイヴ・ソーンダーズが指摘するように、この一群の映画は「アメリカとの、激動期と呼ぶのがもっともふさわしい時代のアメリカをめぐる実質的かつ人を惹きつけてやまない対話に勤しむ」ものである。観客それぞれの出自がどうあれ、今日の時代を考えるべくアメリカン・ダイレクト・シネマへと立ち返るコンテクストは、ここにこそある。

マーク・ノーネス、生井英考
(プログラム・コーディネーター)